カニンデでの幕屋の集会プレゼンテーション(1) |
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副総長 ステファノ・オッテンブライトOFM |
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親愛なる兄弟のみなさん、平和と善! |
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序 私は、世界中の至るところで兄弟たちが行っている、美しくすばらしい働きについて、みなさんにお伝えしたいと心から思っていました。それらの働きについて聞くことは、私にとっても、またみなさんにとっても喜ばしいことです。しかしながら、私はあなたがたに、自らの召命と宣教活動を全きものとして生きることを疎外し、妨げている会の状況と現実を内省することを求めなければなりません。今日の私の話は、“召命以前”に関するものになるでしょう。現在の私たちの状況とこの問題を合わせて考えるとき、私の話は、小さき兄弟としての生活および奉仕の福音的価値に関する更なる熟考に我々を強く促すことになるはずです。それゆえに、私たちは恐れずに、私たちを押し戻し、その進むべき道を塞いでしまっているものが何なのか、明らかにしてみたいと思います。 兄弟たちの心を駆り立てる役割を負う者は、現実の問題を強調するために問題点を誇張し刺激する任を負っています。そしてまたそのような者は、すでに提唱された視点に、別の視点や新しい問題点を加えることも出来るでしょう。その他にも、彼は、警告の声明や、兄弟たちを大きな召命を自らが生き実行してゆくための新しい可能性の道へと誘うために、兄弟たちを不安に駆り立てる権利、義務をさえ持っている、と私は考えています。 最後に、問題を一般化的することには限界がある、ということも指摘しておかなければなりません。私の話は、文化的、また社会の違いのため普遍的でないかもしれません。実際、1つの強調された問題点は、様々な経験の中で様々に生きられているに違いありません。それで、これから述べる様々な提唱に、私たちは忍耐し注意深く聞き入りましょう。それらは、より明らかな展望、新しい熱意と喜び、アシジの聖フランシスコから受け継いだ召命を再びはじめることを助けてくれるに違いありません。 小さき兄弟会の生き方を覆い隠す雲 総長は、書簡「フランシスコ会の今」の中で、今日小さき兄弟会の召命を生きる者たちに向かって、それらの問題点のいくつかを質問あるいは挑戦という形で示しています。つまり、 会員数の大幅な減少; 不可避の老年化; 召命の減少あるいは欠如; 簡単に危機に陥ってしまうほどの堅忍、忍耐の不足; しばしば先行する要因の結果としての熱意、喜び、および創造性の欠如;等です。 それらは、私たちの毎日の生き方を覆い尽くしている雲と言えます。しかしそれらの問題あるいはこれらの問題によって引き起こされた他のよく似た雲の影に、まだ確かに、本当に理解すべき、また小さき兄弟会の召命を本当に刷新してゆく熱意を妨げている巨大な障害が隠れているのです。それは、実際に奉献生活の中の行い、仕事、活動、効率、生み出されていくもの、および結果に関係していきます。これらが、福音的価値を生きてゆくために、また福音的価値を宣教してゆく者のために、重要な価値要素となることは確かです。しかしそれら自身は、奉献生活の最も大切な価値を表すものではありません。実際のところ、非常にゆっくりと、そしてたいした抵抗を示すこともなく、奉献生活は、現代世界の価値観――最も高い価値基準が効率、および結果である世界――の前に屈服してしまいました。つまり、現在の奉献生活は、世界に順応するよう努力したときに、しばしば世界の中で混乱させられたようになってしまったように見えます。そこでは次のようなパウロの言葉の勧告が忘れられたかのようです。 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにしなさい」(ロマ12:2) ところで、世界の科学技術の進歩に伴う競争主義や効率主義の下で――もはや世界はそのようになってしまったのですが――、修道者(宗教者)にはまったく早急に、聖霊に託されたそれぞれのカリスマに従って、その生き方のもっとも美しい部分、本質的な価値によって自己犠牲の精神に生きる力が与えられています。奉献生活を立て直した場合の実りは、その活動や司牧、奉仕活動の現場においてさえも、それらの(世界的価値観に対する)否定の表現の中で、我々の誠意および勇気に裏打ちされた振る舞いが現れてくるでしょう。 自己実現および個人主義 規律に基いて共同体としての奉献生活を考えることは、幸いなことに、公会議以降克服されました。しばしば個人への侵害となっていた規則遵守の理想は、自己実現という理想によって取り替えられたのです。しかしこれに続く時代において、自己実現の理想は、しばしば個人主義的な振る舞いとして現れてきました。私たちはみな「生き、また生かせ!」という言葉を知っています。このメンタリティーは時として、個人的な生活プロジェクトと奉仕活動の模索および実現化の文脈で表現されています。しかし今日、それは一方通行にしか見えませんし、私たちは新しいモデルへ帰って行く必要があります。 「私たちはこのことが将来どのようになっていくかをまだ正確に知りません。しかし、私たちはこの理想の中で、自己実現と本物の兄弟愛、福音宣教を調和させていかなければならないことをも知っているのです」(Martinez Diez) 世界との一致 個人主義が富裕、および生活の便利さと手を結ぶと、それは奉献生活にとって死をもたらすウイルスになります。個人主義は、物質的豊かさの中のあらゆる状況にすばやく増殖します。ある状況の中であらゆるものを手に入れる事が出来る者は、何も必要としませんし、そして特に、誰も必要としなくなりますし、少なくともそれが一般的に考えられることです。私たちを取り巻く環境の多く――東ヨーロッパや発展途上の国々も例外ではありません――に関してこの傾向を指摘しないでおくことは公正ではありません。修道者は消費者主義の魅力や、生活の便利さにおける誘惑の問題から逃げないで下さい。私たちは、自由主義的、あるいは新自由主義的な構造の哲学、文化、そしておそらくその影響下にある「霊性」が、私たち自身の中にも浸透してしまったことを否定することが出来ません。問題は、「消費主義とはただ物を買うということを指すのではなく、洗練された広告のテクニックによって広められた生活のスタイルであり、価値と生活態度の構造である(それは絶えず真実であると繰り返されている)(J.Kavanaugh)」という点にあります。このメンタリティーによって、私たちは、生活のスタイル、ファッションの流行を追うこと、科学技術などの無差別な適用や使用等を正当化しているのです。 言葉と生き方の一貫性の欠如 私たちが修道者であり、教会と世界への奉仕へと向けられたカリスマの相続者であることは、決して忘れられてはならないことです。そして、その明らかなカリスマ性は、直ちに会則、会憲、および規則の下に装いを新たにしてきました。そして疑いなく、私たちのカリスマが教会の一部である、ということへの同意は、伝統的で教会的な交わりの保障へと向けられています。そして、私たちの会でも、ゆっくりと、教会の要求(教区司祭となること、司教となること等)を受け入れてきました。このことは実は、教会の要求が私たちの会のカリスマに勝る優位を占めていることを意味しています。それゆえに私たちはしばしば、二重のアイデンティティーの問題、あるいはおそらくアイデンティティーの欠如の状態を生きているのです。どちらを優先すべきか確定することは容易なことではありません。司祭であることと、修道者であることとは、どちらが第一のことでしょうか?私たちの会のカリスマと、宣教という価値ではどちらが第一義的なものでしょうか?司牧への関わりへの要求と、奉献生活の要求とでは、どちらが優先されるべきでしょうか?私たちは即答する用意があります。「当然どちらも大切だ!」と。しかし、私たちはこのことを本当に実行しているでしょうか?この状況の間に立たされる、司祭ではない兄弟たちに、私たちは何を語ることができるのでしょうか? 第二バチカン公会議によって進められた刷新は、私たちを目覚めさせ、会のカリスマの再発見へと私たちを促しました。私たちは少なくとも、神学のレヴェルで、以下のことを明確にしたと言えます。「私たちは、会のカリスマの伝統を確かに確認しました。おそらく今、私たちが信じ、希望し、宣言する舞台である今日の世界へ、預言的な表現となるような生き方を正しく生きていくことに最大の努力を払い集中すべきです」(ジャコモ・ビニ)。自らの語ることと、自身がその語る内容に沿った生き方の間に矛盾を抱えたままで生きることは、誰にも出来ないのです! |