カニンデでの幕屋の集会プレゼンテーション(3)

G.ムーアofm

新しいミレニアムに、どのような兄弟的交わりが必要か



初期の小さき兄弟会の生活は、イタリア半島で産声をあげ、短期間にヨーロッパの大部分に爆発的に広がりました。これらの共同体の生活は、小ささ、貧しさ、動きやすさや、周辺都市で誰にでも目撃されることなどの使徒的な生き方を通して、当時の人々の最も深い熱望に応えていましたし、教会にとって新しい希望のしるしとなり、また教会を揺り起こす力となっていました。やがて時の経過と共に、この兄弟的生き方は修道院でのより安定した生活に落ち着くようになり、自らを修道院制の形態に留めて初期の生き方の活発な部分のいくらかを失う結果を招きました。

新しいミレニアムを迎えるに当たり、小さき兄弟会は、ここカニンデであなたがたに代表されるような世界中の若い兄弟たちのうちに希望を見出そうとしています。そしてその希望は、あなたがたに、次のように問うでしょう。あなたがたは、小さき兄弟会の刷新に向けて、現代世界との対話を始める力を持った小さな新しい共同体的生き方の爆発的な広がりに向けて、また小さき兄弟会を若返らせ、別の新しい生き方を生み出すことにむけて、個人的に、活発に貢献するよう、自分を準備しているでしょうか?会の未来における命は、あなたがたの答にかかっています。神に感謝すべきことに、私たちは様々な場所でこの新しい生き方のしるしを見出しています。この挑戦は、わたしたちが大胆で創造的であるとき、また小さき兄弟会の変わらぬ豊かなカリスマを制限しているものに打ち勝つときに成立します。

生き方のしるし

兄弟的な生き方について広く見渡してみますと、私たちは、未来に向けて希望の扉を開いていくことになるであろう、ある生き方のしるしを見出すことができます。全世界のほとんどの場所で、兄弟的共同体が福音宣教にとって第一のあり方であり、その共同体の質を向上させるためにあらゆる努力が必要であるという刷新された新しい意識が見出せます。また多くの兄弟たちが、兄弟的愛に満ち、思いやりをもって、互いに平等であることや、自分たちが他の兄弟たちのために存在しているという感性を増していることが観察されます。

病気や年老いた兄弟たちは優先され、献身的に世話されています。多くの兄弟的共同体では、祈りの時間や集い、地区の集会、霊的黙想などの時間がとられ、兄弟的交わりを構築しその発展を評価しつつ、その生活を見直し、保っていくことが出来るよう賢明に組織されています。真実に福音宣教をしている兄弟的共同体の数は増加していますし、彼らは計画を立て、実行し、自分たちの活動を共に評価し合っています。世界中のいくつかの共同体では、交わりと協働の水準が管区のレヴェルで著しく向上しました。国際的な共同体、また異文化混交の共同体の数も増しています。

私たちは、会のカリスマの異なる展望を表現している小さな共同体を見出します。そのような共同体は、社会の実情の中で、謙虚な奉仕を通して小さき兄弟を生き、表し、深い交わりを生きるために、また信仰と神の言葉を分かち合うために努力しています。そのような共同体は実に様々な姿をしています。あるものは暴力の結果として家を捨てなければならなかった人々と共に生きる、旅する(巡回する)共同体ですし、あるものは障害をもつ人々と、同じ状況と困難を分かち合いながら、その中に常設された小さな共同体であったりします。

また、「土地を持たない」人々の只中にあって、緊張や考えられる衝突などの状況の中で和解や平和の道具となるように努めつつ、その状況を分かち生きる共同体もありますし、非常に多くの兄弟たちは貧しい地域に住み、様々な使徒職を通して福音を証し、奉仕しています。また観想生活に大きな重点を置いた小さな共同体もありますし、労働の中に生きることに重点を置いた共同体もあります。そして、イスラム教徒の中で生き、キリスト者であることを証するための共同体も存在します。

  私たちは、世界の至るところで、「所有することと、権力」を拒否し、貧しく素朴な生き方のうちに、生きておられる神の御顔を誠実に追い求めることを通して、また真実の人間の交わりを通して、また貧しく追われた人々との生活の共有を通して、人々を受け入れ尊敬することを通して、被造物への畏敬の想いを通して、そしてすべての環境において命の大切さを証しその中で格闘することを通して、福音に生かされた酵母を内包している共同体を見出すことができるのです。

問題

おそらく一番の問題点は、大部分の修道院において、私たちが共に住んでいながら、生活の深い、兄弟的な交わりを持っていない、という点にあります。兄弟個人間の関係が希薄で、共存し、同じ屋根の下に住み、同じテーブルを囲んでいるとしても、相互の深い関係が不足しているのです。多様性をもつ兄弟、彼らの性格、その人生や個人的なタレントを受け入れることは困難なことです。このような相違は、時として兄弟的交わりを豊かにする代わりに、障害となってしまいます。多くの個人主義はいまだに私たちの中に存在しますし、共同体や管区の方針に何ら関心を示すことなく自分自身の生き方を作りあげる傾向をもつ兄弟たちもいます。

しばしば私たちは、共同体に属し、私たちが兄弟となるためのチームワークを促進することを怠ります。実態は、少ない兄弟たちと多すぎる仕事が、過度の組織運営や働きを引き起こしますし、兄弟たちが関わっている人々への過度の交わりや、兄弟たちの親交を阻害する、行き過ぎた積極的行動主義を引き起こします。また少なからぬ場所で、兄弟的交わりの通常の形態を欠いて数を減少させてしまった共同体が見出されます。これらの状態の消極的意味での結果として、私たちは疲れ、共同体への帰属意識をほとんど持たない兄弟として取り残されてしまいました。

貧しい生き方は、多くの共同体で望まれつつもその多くが失われてしまいました。兄弟フランシスコの生き方に特徴的な、福音的に活かされた積極性は、私たちの生き方の中に必ずしも明確に現れていません。私たちは次第に、私たちを取り囲む文化と同じようになってしまい、科学技術が提供する、快適で、「便利」で、最新の生き方を追い求めるようになっています。私たちの奉献生活はその本来の本質から、消費主義の罠や誘惑から自由になり、消費文化にかわる別の文化の証人として「異分子」であるべきなのですが、逆に消費文化の中に陥った「ありきたりの者」となってしまいました。

私たちは、小さき者の兄弟共同体として(既存の)場所や役割、組織、仕事などを捨て去って生きる事が難しくなっていることを知っています。私たちの兄弟共同体の大部分は、世界において、また今日の教会において預言的な存在とはなっていません。小さき兄弟会とは、現実を直視せず、快適さや安定性の中に満足していて、過去の聖人の生き方の中に逃げ込んだ修道会だという人もいます。

小さな兄弟的共同体として、「中心」の快適さを離れ、辺境に出かけようとする兄弟は一握りしかいません。なぜそれが困難なのか。よく見受けられる理由としては、基本プロジェクトに関した明快さの不足が挙げられます。また兄弟個人間のより深い関係を創っていくことの困難性、福音的なモチベーションの不足している兄弟たち、兄弟的交わりに責任を負う部分での自己評価力の不足と、共に生きる精神の不足、等の困難も存在します。

敢えて行いさえすれば!

私たちが、兄弟フランシスコやクララや初期の兄弟たちが持っていた熱意と情熱、大胆さと自由、そして創造性を少しでも回復できれば、新しいミレニアムを迎えるのにどれほどすばらしいことでしょう!すべてのレヴェルで兄弟的共同体の新しい爆発的な拡がりの夜明けに立ち会うことは、何と偉大なことでしょう!ここブラジルの東北に位置する町カニンデ、小さき兄弟会の神秘的な雰囲気を呼吸する貧しい、また謙虚な人々の生きる只中の地に呼ばれて、私たちは、兄弟的交わりの意味の新しい活力を見出すために、また
「新しい状況への新しい道をイマジネーション豊かに、また創造的に発見するための、私たちの『大胆なイニシアティブ』(FF338)」に喝を入れるよう召されています。私は今、グローバル化された世界の中で、神の国のしるしとして私たちのカリスマを真実に花開かせるために、いくつかの「理想的な」兄弟的交わりの特徴と傑出した点について話したいと思います。

聖三位一体に根ざした兄弟的交わり

第三千年紀の兄弟的共同体は、「生きておられる、まことの」神の積極的な経験に基づくようになります。兄弟共同体は、その源泉であり、愛の模範であり、一致と交わりである三位一体の中にしっかりと立ちつつ、連帯責任と交わりの精神の中で神に全く奉献されたものとしての自身の召命を見出していくことになるでしょう。
「聖霊における父なる神の子らでありイエス・キリストの兄弟として、小さき兄弟たちは、主が兄弟フランシスコに示された福音の生き方に従い、共に兄弟としての生き方を実践し、母親がその子供を愛し慈しむ以上に、互いに愛し慈しまなければならない」(GGCC38)。

 「聖霊における父なる神の子らでありイエス・キリストの兄弟として」生きるためには、兄弟的共同体は、多くのことを行い多くの仕事を維持することに取り憑かれたように生きようとはしないと思います。まず何よりも共同体は、絶対的に主に属することを確信して、神の言葉を黙想し分かち、エウカリスティアを準備して祝い、また時課の祈りを共にし信仰を分かつ時間をもつために、静寂と沈黙の時間をもうけるようになるでしょう。この祈りの生活は、「唯一にして三位にまします」神を賛美しつつ、人々の生活、苦しみと希望を、統合しようという試みです。このような共同体のあり方の中では、毎日の生活の中での神の体験は人々が分離していく理由にはなり得ません。それどころか、イエスの模範に倣い、父なる神と神の国の奉仕に自らを全く明け渡すためには、神とその民への情熱は(私たちの生き方を)補う現実となるでしょう。小さき兄弟たちの家は、人々にとって、霊性の学校になり、神の愛と優しさを経験し、神の国を建設するための新しい活動力を発見することができる場所へと変えられていきます。


交わりのしるしであり道具である兄弟的共同体

第三千年紀の兄弟的共同体は、兄弟的な交わりが自らの召命の第一目的であることに深い確信を見出すようになります。
「司牧活動の代理人たちのベース・キャンプ」という修道院の概念は、次のような確信、つまり「兄弟的交わりは、それ自体すでに使徒職である。その交わりは福音宣教の業に直接的に貢献する(共同体における兄弟的生活, 54)」という確信によって克服されることになるでしょう。優先課題は、個人間の交わり、人間として、キリスト教徒として、そして小さき兄弟としての価値の成熟という点に存在します。

この観点から見れば、いかなる兄弟も、仕事や何かへのかかわりを、個人的な力で始めることは最早できません。兄弟的交わりが第一の課題であり、生き方と全ての仕事、係わりの帰着点です。何らかの要請を受け、兄弟を指名してその要請に応えるために送り出すのは兄弟的共同体に他なりません。兄弟的共同体は、すべての使徒職、司牧、教育、社会事業を行うために究極的に責任を負うことになります。

兄弟的共同体は、個々人のそれぞれの富を統合し、肌の色や種族、金銭や社会的地位によって引き起こされる相違や差別を克服する可能性を示すことで、
「一つの新しい人類の家族としての預言的しるし」(GGCC87.2)として、その使命を回復できるでしょうし、またグローバル化された、個人主義的な、偏狭なこの世界において交わりを促すものとなる事ができるでしょう。

兄弟的交わりを構築しまた回復する通常の方法を利用することで、必要なヒエラルキーと様々な価値の調和は保障されるでしょう。その通常の手段とは、祈り、兄弟の集い、生き方の学び、会議、霊的黙想、生活の見直し、最終的な評価を伴う生活に関するプロジェクト、等の時間をとることです。


貧しい人々の中にある貧しい兄弟的共同体

第三千年紀の兄弟共同体は、便利な生活を追い求める自由主義社会の中にあって、何百万もの人々を疎外し飢餓に追いやっている社会を非難しうる別の生き方を証するものとして、福音的貧しさを再び考え直していくことになるでしょう。それは、最も謙遜で、最も貧しく交わりを生きる私たちの道となるはずです。この福音的貧しさの価値観が不足していること、あるいは弱いことは、小さき兄弟としての生き方に関する多くの今日的問題(個人主義、消費主義への渇望、証しの価値の不足、失ってしまった意味の埋め合わせを探すこと)の中で重要な要因を占めます。この事態を認めるなら、もっと単純な生活様式を見出すことができるでしょう。つまり、節度があり、厳しく、何ら曖昧な部分もなく、必要なものだけで生活し、余分なものを退け、持っているものを分かち合い、
「現実と霊との中における貧しさ」を新たにすることを学ぶような生活様式を(GGCC8.3)。


兄弟フランシスコの言葉に、次のようなものがあります。「卑しくて見捨てられている人々の間や、貧しくて体の不自由な人々、病人、ハンセン氏病の人、道端で物乞いする人々の間で生活する時、喜ぶべきである」(ER9.2)というものです。この言葉に従うならば、兄弟たちは、貧しい人々や疎外された人々と共に働き、その生活を共有し、神の国の建設に協力して働くために彼らの間に共同体をおくことを好むようになるでしょう。セラフィム的師父はハンセン氏病患者の病院を建設したのではなく、素朴に彼らと生活を共にし、固く結ばれて、彼らのうちにあって彼らのようになろうとしました。そのことを思い出すならば、兄弟たちは新しい仕事を促進し、貧しい人々のためにイニシアティブを取ろうと腐心することよりも、むしろ苦しみ困窮している人々の間にいて、自らの手で彼らに奉仕し、尊厳ある生活を獲得する彼ら自身のイニシアティブを支えていくようになるでしょう。

辺境地域に挿入された兄弟共同体

兄弟フランシスコの言葉に
「兄弟たちは、家、土地、その他いかなるものも、何一つとして自分のものにしてはならない」(LR6.1)というものがありますが、この言葉に注目すると第三千年紀の兄弟共同体は、あまり制度化されない共同体になるでしょう。「この世の巡礼者であり旅人」として、小さき兄弟たちは、今日の教会や人々の切迫した要求に応えることのない土地や考えや活動や仕事場を放棄するのに敏速で柔軟性に富むようになります。「自らを無とした救い主により近づき、その主をさらに明らかに示すために」(GGCC66.1)、兄弟たちは周辺地域へと移動し、支配的な文化に対する福音的な抵抗として「小さき者としての動きやすさ」を選んでいくことでしょう。「時のしるし」の中で聖霊の声を識別しようとする、小さき者の中の小さき者たちは、別の生き方を選び、「新しいアレオパゴス」に出て行く用意があります。その時、迫害と嘲笑と暴力が統治するその場所で、彼らは、対話と理解の新しい場所を開くことに貢献するでしょう。

宣教する兄弟共同体

第三千年紀の兄弟共同体は、私たちが宣教する共同体であり、兄弟たちは利己ではなく利他に生きる者であり、
「主イエスの言葉と行いの証をするために全世界に送られている」(LtOrd9)というフランシスコと初期の兄弟たちの確信を再び見出すことになるでしょう。私たちの僧房は世界であり、私たちの修道院は兄弟の家であり、私たちの宣教にとっては「全世界」が永遠の舞台です。この確信と共に、宣教感覚の広大な展望は促進され、それぞれの兄弟は三、四人からなる小さな共同体のメンバーあるいは管区の構成員というだけではなく、小さき兄弟会に属しているのだということを感じるようになります。この展望は、国際的な、また異文化間でのプロジェクト、国際的な視野での会議、管区間の定期的な交流といった新しい可能性を広げるでしょう。

命に奉仕する兄弟共同体


第三千年紀の兄弟共同体は、「真理と命、聖性と恩寵、正義、愛と平和の王国」(The Prefeceof the Solemnity of Christ the King)に奉仕する共同体となるでしょう。周辺地域という社会状況の中に入り、命の最前線に立ち、まなざしを主にむけて、兄弟たちは「内向きの」議論や問題に時間を割くことをやめ、彼らの才能と情熱を命の王国へと注ぎ込むことでしょう。平和のうちにありまた平和を創り出す人々として命を証しし、また決定的な活動をもって、兄弟たちは戦争や武力の喧伝、貧しい人々への圧迫を非難するでしょう。
「兄弟たちは平和の王国を建設するためには、労力も犠牲も惜しまない」(GGCC69.2)。その目指す夢は、誰も疎外されることのない社会、すべての命が生かされ、母なる大地に敬意が払われ、全ての人々・文化・宗教が対話し、福音における団結と兄弟愛の精神が促進される世界、つまり、全ての人が「命を受け、しかも豊かに受ける」(Jn10.10)世界に他なりません。

結論

これは不可能な夢でしょうか?単にユートピアにすぎないのでしょうか?それはあなたの答えにかかっています!若いあなたがたは、現実的で重要な選択を提示することで、兄弟的共同体を本来の姿に戻し、刷新することができます。
「私たちの福音的生き方は、信仰と希望がこの上なく結ばれて移植された命の土壌の上に育つ、熱意をもった、生きた細胞となるにふさわしく立てられています」(Fe196)。必ずしもすべての兄弟共同体が、より重要な生き方選ぶために自らを刷新する力を持っていないかも知れません。しかし、疑いなく、これらを夢想し、新しい預言的共同体を形成し、新しい生き方と希望を担う力をもっている共同体も存在します。

最後に私は、「王様のハト」の物語をもって話を終えたいと思います。
「ナスレッディンは王様の首相となりました。あるとき、宮殿を散策していると、生まれて初めて王様のタカを見ました。ところでナスレッディンは、今までにこの種の『ハト』を一度も見たことがありませんでした。そこで彼は、はさみを取り出し、タカの爪と翼とくちばしをつめました。『さあ、立派な鳥になったぞ。おまえの飼い主は手入れを怠っていたからな』」。」

この物語は、飼い馴らされてしまった私たちのことではないでしょうか?おそらく今が、新しい目覚めの時。私たちの本当の姿を再発見し、もう一度空を飛ぶ時がやって来ました!小さき兄弟会は、若い力を必要としていますし、初期の兄弟たちの生活様式のうちに新しい爆発的な拡がりが起きるためには、彼らが安全や快適さの中に身を留めていることを望んではいないのです。