カニンデでの幕屋の集会プレゼンテーション(4) |
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総長 ジャコモ・ビニ ofm |
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識別の恵み |
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あなたの天幕に場所を広く取りなさい(イザ54:2)
1.何が本質的なことで、何が二次的なことかを識別すること 識別は、私たちの生き方の展望、つまり私たちは何者か、私たちはどこに行こうとしているのか、ということについての展望に関わるものです。もし私たちが、自らの望みを明確にし、はっきりと調和のとれたアイデンティティーを見出したいと思うのならば、この識別が絶対的に必要です。そうすれば、自分たちの個性を一つのものとし、その中で和解し、よく方向づけらたものとすることができるでしょう。それは、「唯一のまことの神である私たちの創造主・贖い主・救い主のほかは、何も望まず、何も求めないようにしよう。またほかのどんなものも、私たちを満足させ、喜ばせることがないように」(ER XXIII.9-20)という私たちのアイデンティティーに他なりません。 マルタとマリアの譬え(ルカ14:15-22)、あるいは神の国の宴会に招かれた客の譬え(ルカ14:15-22)を例に挙げてみましょう。本質を見誤ってしまうと、霊的に非常に歪曲された状態に陥ります。つまり、すべての職業は、それが絶対的なものと見なされれば、(招待客が様々な理由で招待を断ったように)招かれるべき神の国を受け入れることを思い留まらせる結果となりまし、本質(マリアのようにイエスに聞くこと)を誤るならば、私たちは(マルタとマリアのように)他者との関係を阻害してしまう結果を生み、私たち自身のイメージで神を造り上げてしまうことにもなります。これらの箇所では、なすべきことを神に示唆しているのは、私たちであるという本末転倒に陥っています!神の国への招待を引き延ばすことは致命的なこととなるに違いありません。宴会に招かれた招待客は、たった一回だけしかチャンスを持っていなかったのです。 ―私は、個人としてまた共同体として、どのような根本的な価値、あるいは深い熱望を生きているのだろうか?また生きたいと思っているのだろうか?それをどのように続けていきたいと思っているのか? ―何かを変えていくために、私は何に対して自らを全力投入する準備があるだろうか?どのように?誰と? ―すべての二枚舌を排除し、平安、平和、喜びのうちに生き、それらを告げ知らせることが出来るようになるために、私の生活全体に渡って構築しようとしている内的な統一があるだろうか? 2. 私たちの情愛の識別および方向性 「人間にとって最も大きな喜びは、その人が愛されていることを感じることである」。様々な表現で語られる私たちの情愛をよく識別することは、キリスト者として、また小さき兄弟としての私たちのアイデンティティーを確立するために必要な条件ですし、毎日の生活の調和と、健康でよく方向づけられた霊性にとって、大切なことです。 「私の魂は、あなたのうちに憩う(平和を見出す)ときまで安らぐことがない」(アウグスティヌス)。この平和は、「私たちの体をあるべき場所に戻し、」戻した体を「平和のうちに存在すること」のしるしとし、「平和のうちに存在すること」を、私たちの関係を変えていく力を持つほどに解放するとき、更には、所有欲を浄化し、それを(所有すべきものではなく)神からの賜物という論理にまで開放するときに、達成されます。私たちの体が「あるべき場所に戻る」のは、私たちの欲望が教育され形作られて、真実の愛と神からの偉大な賜物に向けられ、いつも新しい所有欲を掻き立てるところの表面的で、自己中心的で、快楽主義的な欲望の誘惑を打ち負かすことによって、達成されるのです。自分の体が「あるべき場所に戻る」ことを感じてください。あるべき場所に健やかに憩い、また、そこに住みあるいは私たちを訪ねてくる「誰か」との対話のうちに生きるために。 私たちの体は、生きた存在としての透明なしるしとならなければなりません。私たちの奉献生活は、歴史の中に神の国をもたらす模範なのです。 「信仰とは、私たちの心と交わる神の愛である」(モーリス・ズンデル)。この愛を注意深く守るということが、識別の第一の形式です。すべての肉が「恍惚にはいるほどの」(外部に開かれた)霊的存在となるために、神は肉となりました。私たちは、「私たちの生が欲望(を教育する)訓練所となる」(アウグスティヌス)限りにおいて、私たちの欲求を広げてくださるよう、神に願い求めるべきです。もし、私たちを召してくださり、今も召し続けてくださっている神に完全に自身を委ねないのならば、私たちはいつも何かを欠いており、他者との関係の貧困さの中で満足することができないでしょう。神に自らを委ねる以外に、私たちの欲望を満足させることはほとんど出来ません。私たちは、このことを他者への道として学ばなければなりません。 私たちのあり方において、情感レベルのバランスを取ることを助けてくれる兄弟的生き方とは、神を中心とする生き方です。 ―共同体における兄弟的交わりの根本にあるものは、私たちがイエスと共にあり、そして宣教に送り出された者である(マコ3:13)という事実です。 ―私たちは日常の生活の中で、「わたしの母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことであり、このことを実践していくべき」(ルカ8:21)ことを自らのものにしていきます。 ―宣教活動への係わりについては、「イエスは弟子たちを二人ずつおつかわしにお遣わしになった……」。私たちは遣わされた者であり、自分自身の意志で行動する者ではありません。 注意深く内省しましょう。 ―私たちは、孤独、孤立に苦しんでいますか? ―私たちは、愛され、心を留められ、理解されることを求めていますか? ―私たちは、私たちの欲求、私たちの体に、どのような養成、方向性を与えるでしょうか? ―私たちは誰に属していますか?誰に属したいと思っていますか? 3. 識別に欠かせない方法としての神の御言葉 神の御言葉こそ、私たちの生き方全体にとっての光です。その中に統合され、私たちの個性を神に集中するとき、神は真実な方となり、私たちの生き方の変容された方向性となります。 神の御言葉と兄弟フランシスコの関係を見てみましょう ―彼は、御言葉に聞き、それを受け取るために、沈黙と孤独の場所を設けます。 ―信仰のうちに彼は喜び驚きます。御言葉の前に、彼は自らを開け放ち、裸でいます。 ―彼は沈黙のうちに御言葉を守り、それによって変容されることを望みます。 ―彼は、識別の具体的な姿として、御言葉に自らのすべてを投入したいと望みます。 ―彼は、御言葉を「想像」します。自らの存在のすべてを挙げて、御言葉に集中します。アウグスティヌスはこのことを「新しい命への参与」と呼んでいます。 ―御言葉は彼を、神と他者との交わりへと導きます。 ―要するに、御言葉は宣教、すなわち生活の証と、言葉にされた宣言となります。 結論 「私たちが世界を持ち上げることのできるアルキメデスの棒とは、私たちの内部の個人的な変容に他ならない」(M. ブーバー)。私たちが語ったことを熟考すること、(この変容にむけて)根本から行動に出ること、これが更なる行動のため、私たちの生き方全体のために必要な識別の方法です。福音へと向けられた一致のためのプロジェクトに従って継続して実行に移された私たちの経験は、識別のための必須の道です。それはまた兄弟フランシスコの道でもありました。 私たちは、この「夢」あるいはこの「セオリー」を証しするために、自由で、大胆で、寛大な兄弟たちを必要としています。 私たちは、私たちの只中に、共にいて行動してくださる神から眼を離さず、神に聞き、自らを省み、いつも再び始める用意のある、預言的な兄弟的交わりを必要としているのです。私たちには、兄弟的交わりという聖性が必要です! 召命は、それが熱く燃えているときに生まれ、成長し、成熟します!そしてこのことは、私たちの召命への「挑戦」に対する熱意が生き生きと保持されるために、「二つの重要な態度」を要求します。 ―私たちの生き方の「宝」である神を「見出し」、「求め続ける」こと。沈黙、探求、御言葉を聞くこと、対話、経験、内省など、あらゆる手段を用いて、神との出会いを生き、その望みを抱き続けること。 ―大胆さ。奉献生活は、預言的でなければ、存在し得ません!「あなたは二人の主人に仕えることはできない……」のです。そしてまた、「もし神を愛したいのであれば、私たちはその思いを私たち自身(の弱さ)から守らねばなりません」。神への愛は、実践に移され、「正しい教え」と「正しい実践」との間に統一された生き方とならなければならないのです。 |