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フランシスコ会の今
−反省と展望−

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序文
親愛なる兄弟の皆さん、
主があなたがたに平和をお与えくださいますように!

 疲れを知らぬ「旅人」として誰に希望をかけるかを知りつつ、私たちは第三・千年期に入ります。そして自分が、8世紀にわたる素晴らしい冒険の歴史のなかで多くの男女の生涯を魅了してきた宝の担い手であることを自覚しています。神が私たちをフランシスカンの福音的召命という賜物の担い手としてくださったという自覚です。過去において、多くの人にとってフランシスコは、幾世代もの人々をキリストに導いた「第二・千年期の人」でした。彼は福音が当時の男女に受け入れられるように、全く単純かつ率直に示しました。彼の直観と大胆さは、今日でも私たちを驚嘆させ続けています。

 福音のこの同じメッセージを受け入れる心の備えが完全にできており、このメッセージが内包する霊性に渇いている現代人の期待を裏切らない義務が、今や私たちにあるのです。

 世界中の多くの兄弟・姉妹への訪問と、彼らとの出会いの中で、私はフランシスコの理想が我々の間でどんなに生き生きと保たれているか、私たちが現代の様々な文化の中でその理想をどんなに受肉させようと努めているかを、喜びをもって確認することができました。福音の照らしの中でこの千年期を始めたいという深い渇望があります。この渇望が空しくならず、かえって活気づけられるよう、私は励ましのこの手紙を通して、兄弟の皆さん一人ひとりと「顔と顔を合わせて語り合い」たいと(Uヨハ12)望んでいます。

 神が、私たちの間で、私たちを通してなし遂げる御業をお止めにはならなかったということへの私の感嘆を、まず初めに皆様と分かち合いたいと思います。次に、私たちの「生活形態」を忠実かつ寛大に証ししている大勢の兄弟・姉妹に心からの感謝を表明したいと思います。

 最後に、未来に向かってたどる道の不確かさに不安を覚えている人々に、恐れなく前進し続けるよう励ましたいと思います。「神の愛のうちに生きる者には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します」(Tヨハ4:18)。主は常に私たちと共におられ、主が共におられるなら、すべてが私たちに可能です!

 親愛なる兄弟の皆さん、この手紙は、こんにちのフランシスコ会の状況に関する、私の印象と考察を皆様に伝えるものです。私は全兄弟の僕として奉仕しつつ、最近の3年間に見聞きしたすべてのものをここにまとめました。私たちのなし遂げてきたものの「思い起こし」が、現在の私たちの行動を刺激し、未来を希望の炎で照らしますように!

 ローマ、2000年 6月11日  聖霊降臨の祭日


 I 期待と希望

 「聖フランシスコの弟子である兄弟たちは、祈りと献身の霊において、兄弟的交わりのうちに、福音的生活を徹底的に生きなければならない。悔い改めと小ささとの証しをし、すべての人に対する愛のゆえに、全世界に福音のメッセージを伝え、和解と平和と正義を行いによって宣べ伝えなければならない」(会憲1§2 )。

 私たちは今、人類の歴史の中でも特に大きな変化の過程の超越的な時を生きています。この変化の過程の中には、たくさんの命の芽生えがあり、私たちの現実世界を再建し、より良いものにしようとする熱望が活発となり、現代の男性と女性は数えられないほど多くの期待を抱いています。この人々は、自分の生活に新しい意味と内容とを与えてくれるものを捜し求めています。

 至る所で人々は私たちに質問し、私たちが「抱いている希望について説明し」(1ペト3:15参照)、その希望を象徴的な振る舞いと生活様式とによってすべての人の目に明らかにするようにと、私たちに促します。私たちは、この象徴的な振る舞いと生活様式とによって現代人に語りかけ、また、現代世界に現れる諸要求に対して開かれた者であることを証しすべきです。

 聖フランシスコと彼のメッセージは、驚くほど現実的な意義を持ち続け、あらゆる文化の中で共感と歓迎を引き起こすことができます。かつてないほどフランシスコは生きていて、こんにちの人々に語っています。
私たちは、もう一度、彼の福音的プロジェクトを受肉させることができるでしょうか?
魂と体の一致のうちに、私たちの言うことと行うことの一致のうちに、私たちの「私生活」と他の人々との関わりとの一致のうちに、フランシスコの福音的プロジェクトを、同時に目に見えるもの・魅力的なもの・受け入れうるものとしながら、確信と生きる喜びとを通して、それを分かち合うことができるでしょうか?
ここにこそ、第三・千年期の初めにあたって、現実の世界が私たちに投げかける挑戦があります。

 豊かな、そしてますます豊かになり続ける少数の人々と、生きるのに必要最低限のものさえ不足しているおびただしい数の悲惨な人々との間にあるますます大きくなる不均衡に答えを出すよう、私たちは求められています。
私たちは、見捨てられている人々と連帯した、兄弟的生活様式を持っているでしょうか?
いったい誰が、私たちが彼らにもたらすことのできる物質的な援助にもまして、我々の自由を、民族或いは国家によるあらゆる障壁の拒否を、私たちを取り巻く消費社会に関するあらゆる妥協の拒否を、明らかに証しするでしょうか?

 私たちは、経済的利益と競争と出世欲しか知らない世界にあって、正義と和解と平和を推進するようにと求められています。ここで、私たちに欠けているものは、声明でも、個人としての寛大な行いでもなく、兄弟的共同体における、具体的な・もう一つの生活形態です。聖パウロが言うように、「私たちはまだ産みの苦しみを味わっています」(ロマ8:22)。

 私たちは、非常に特別な「カイロス〔時〕」、つまり、フランシスコ会の新しい出発と、固有のカリスマ的諸価値に基づいて革新された新しい実存とのために、与えられた恵みの時を生きています。フランシスカンのメッセージは、他者への尊敬・「相違の調和」・交わりなどに努めるようにという招きとして現れます。フランシスカンのメッセージは、希望の言葉として現れます。個人主義の破壊的な力に直面して、もう一つのダイナミックな福音的価値として現れます。

 物質的な富からの自由と離脱は、質素な・私利私欲を捨てた・余分なものを持たない生活によって、また、あるがままの自分と・あるがままの持ち物との兄弟的な分かち合いによって証明されますが、この自由と離脱は、世界を本物の「闇市」とした我々と同時代の人々に確かに呼びかけることができ、彼らを典型的に聖書的でフランシスカン的な価値と連帯と返却へ確かに招くことができます。なぜなら「地球は神のものであり、私たち自身も神の所有物である」(出19:5参照)からです。私たちは、万人のために備えられたものを、貪欲も〔取り戻し〕請求もなく分かち合い、それを感謝の行いのうちに神に返さねばなりません(非裁可会則 17:17)。

 公会議後のこの年月における私たちの歴史を顧みるとき、聖フランシスコの経験と霊的メッセージとに基づいている小さき兄弟のアイデンティティー〔独自性〕が、大層明らかになったことを認めねばなりません。このアイデンティティーは、私たちの立法と本会の最近の文書(会憲・総会の決定・公文書・総長の手紙など)において、等しく大層正確にされ、明記されていることを認めねばなりません。フランシスカン家族の極めて波瀾に富んだ歴史を眺めるとき、私たちのアイデンティティーに関する明晰さと深さは少なくとも理論の面において、優れて貴重な成果で、私たちのカリスマの「正統性」を正確に定義しました。今や「正統性の実践」に、つまり私たちが信じ、希望し、「宣言する」ことを、現代世界に忠実かつ預言的に提示する生活様式に我々の努力を傾注すべきではないでしょうか?

 人数の減少にもかかわらず、フランシスカン修道家族は、今も全世界の修道者〔80万人〕の約4分の1〔20万人〕を構成しています。(20万人のうち、2万人が観想修道女で、3万5千人が第一会の兄弟です。)これは、現世の生活に対して信じられないほどの霊的力を提示します。そしてこの力が、第三・千年期の人々の熱望と、日常生活という網目スクリーン*1との中で具体化されながら、その固有の表現を見いださなければなりません。【*1網目スクリーン:写真製版に用いられる。】

 多くの兄弟と多くの管区が、預言的刷新のこの道を既に歩み始めています。明らかに、フランシスカン生活の根本的な諸価値への新たな立ち返りがあります。大事業を維持することの困難とか人数の減少などの不安に陥れる諸状況でさえ「私たちの誓約を再考し組織を現代の要請に適合させるために勇気をもって再検討しなさい」という招きだと解釈することができます。
私たちが既に歩みだしている預言的な道の幾つかを、皆さんに思い起こして頂くのは、嬉しいことです。


@ 「総本部」と管区との間で、また隣接する管区とクストディアとの間で、より一層緊密な協力関係が生まれています。

A 管区や連合の中で、フランシスカンのカリスマ的諸価値という土台の上に築かれた、多様な種類の兄弟的共同体の誕生を目にします。或るものはより「急進的」。他のものはより「観想的」。更に他のものはより「地域社会に入り込んだもの」で、周囲の世界と連帯しつつ対話に従事しています。この多様性は、管区内で受け入れられてきており、疑惑や偏見もありません。これらの共同体のイニシアチブは重要です。なぜなら、本会は常に他の預言的な兄弟的共同体を生じさせてきており、今度は、これらの共同体が新しい道を開いていくことになるからです。これらの兄弟的共同体のイニシアチブは「創造的な忠実さ」を示すものであり、この「創造的な忠実さ」こそが、教会がこんにちの私たちに求めるものであり、私たちの固有のカリスマと完全に一致するのです。

B 幾つかの管区では、生涯養成に真剣な注意が払われています。生涯養成は我々の未来を保証するものであり、一人ひとりの兄弟、すべての兄弟的共同体、理事会・院長・養成担当者並びに様々な部門のアニメーターのようなグループを巻き込んでいます。

C 同様に幾つかの管区では、初期養成を再編する必要を感じています。次の点を考慮して養成内容と適切な場所を設定してきました。
1・兄弟一人ひとりに適した養成となるため。2・理論と実践的経験の両方に基礎づけられた、真剣なフランシスカン的養成のため。3・特に人間的・キリスト教的・フランシスカン的諸価値のためです。
被養成者の召命に関して以前にも増して真剣な識別が行われています。この真剣な識別は、とにかく大勢の会員がいるという先入観や、会の生き残りへの恐れから解放されたところからなされるべきです。

D 国際的・多文化的な兄弟的共同体が、数多く実際に育っています。例えば、本会のすべての宣教プロジェクト、またアフリカと中東のほとんどすべての連合・クストディアなどは、国際的・多文化的性格の共同体です。

E 自分自身が、旅人的・観想的・福音宣教的であることを同時に維持するために、しっかりとした内的堅固さに基づいた体験をしたいと兄弟たちはますます願っています。

F 我々全フランシスカン家族の中で、協力関係が常にいっそう緊密になっています。

G 殆どすべての兄弟が、自分の召命を愛情深く保ち、修道生活の誓約を忠実に生きていることが認められます。多くの兄弟が、年を取った兄弟でさえ、新しい道を進む備えができています。

 II 全クストディアと全管区に共通な、幾つかの問題

「神の愛のうちに生きる人には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します」
   (1ヨハ4:18)


1.人数の減少と平均年齢の高齢化

「召命の乏しさという最近の状態は、自分に求められているものが成功することより、むしろ忠実に堅忍することだ、と知っている人によって平静に直視されています。是非とも避けなければならないことは、奉献生活の真の衰退です。それは、召命の減少にあるのではなく、むしろ主に対する献身の弛み、また我々の固有の召命と使命への献身の弛みにあるのです」(ヨハネ・パウロ二世、奉献生活、63)

 修道会の弱体化現象(会員数の減少、低下する力、不安定で不確かな組織など)は、普遍的な兄弟会と地方の兄弟的共同体との生活と活動に、ますます影響を及ぼしています。このことは、必ず、霊的な建て直しに力を与えることができ、我々の奉献生活形態に内包されている、真正な・本質的な諸価値への立ち返りの積極的なしるしとなり得ます。しかし、それはまた、老いていくことへの強迫観念を、我々のうちに引き起こすことも可能であり、我々の無気力を正当化しようとする、逃げ口上にもなり得ます。

 多分、本会の真実の問題は、召命の欠如にあるのではなく、相互に秩序づけられ・調和している諸価値を、私たちが回復し得ないでいることにあります。この諸価値を、私たちが確信をもって喜びのうちに生きることができるようになれば、そのときこそ、フランシスカンカリスマの汲み尽くせぬ豊かさによって、本会の輝きを取り戻すことができるでしょう。問題は、本会の機構が存続するだろうかとか、数の上で生き残れるだろうかとかではなく、今日、そして私たちの生涯最後の日まで、フランシスカンとしての生活を完全に生きることができたかです。60才、いやそれ以上になっても、兄弟や姉妹は、現代世界になすべきこと・言うべきことをまだたくさん持っています。責任を放棄した諦めは、自らの持っている最も素晴らしいもの、本当の自分自身を完全に表現することを妨げるでしょう。彼らの貢献が、もっぱら「能率」によってのみ測られるなら、彼らをどのように動機づけることができるでしょうか。危機をはらむ退職の年齢期の「生涯養成」を、どのように続ければよいのでしょうか?これらは、現在、私たちに課せられている・避けることのできない質問です。

 幸いにも、多くの年配の兄弟たちが、自分の生涯の晩年を、活力や創造性、意気込みを持ち、惜しみない心を保っていることを私たちは知っています。しかし、私たちが助けに行かなければならない兄弟たちもいます。この兄弟たちは、様々な理由(欲求不満を引き起こす変更、過去の傷、無理解など…)のために、エリアのようにうめく誘惑にかられています。「主よ、もう十分です。私の命を取ってください!」(T王19:4)。またこの兄弟たちは、まだその時ではないのに、諦めてしまおうとしています。神との、他の人々との、世界との新しい関係を結ぶために、彼らにとってちょうど「相応しい恵まれた時」が来たのに…。

 老齢は、断じて、霊的生命の終わりでも、枯渇でもありません。それはむしろ、豊かさと経験と知恵の貯えを、また、本質的なことを付随的なことから識別して、それを他の人々の益となるようにする能力の貯えを構成します。ですから、年配の兄弟たちに好機を差し出し、生かされていない活力、だがしかし、こんにちの若者たちにどうしても必要な活力を現すよう、彼らを励まさなければなりません。それは、日々がどれほど平凡で無意味であるように見えても、彼ら一人ひとりの「日々」に意味を与えようと努めることです。私たち一人ひとりには、思いもよらない、殆ど無限の創造性が秘められています。と言うのは、私たちは皆、「神の似姿として創られている」からです! 人生のあらゆる時期に、この創造性を鼓舞しなければなりません。我々の兄弟会における年配の兄弟の役割が、ひとたび明らかにされ、動機づけられ、方向づけられたなら、その役割は、我々の管区において、奉献生活の質的刷新に不可欠な幾つかの務めを果たすに当たって、掛けがえのないものであることが明らかになるでしょう。 

例えば、
@ 耳を傾け、対話する務め。一人ひとりが孤立し、他のことに心を奪われ、誰も他人の言葉に耳を傾けようとしない・気違いじみた世界にあって、快く人を迎え、耳を傾け、助言することのできる誰かに出会うことは、砂漠でオアシスを見つけることに似ています。
A 若者や、それほど若くない人々の同伴者となる務め。年配の兄弟以上に、いったい誰が、召しだしの旅路の異なる諸段階と、その困難や危険を「読み取り」、理解するよう彼らを助けながら、この旅路の美しさを明らかにすることができるでしょうか。

B 兄弟的で母親のような温かさをもって、忠実に揺るがずに居る務め。平和な人として、平和をもたらす人として居ること。それは我々の兄弟的生活を「源泉に帰らせる」ものです。「ただ彼の目を見つめるだけで、人は平和を見つける」と、或る賢者について言われました。同様に、我々の年配の兄弟たちも、そこにおいて、すべてがしるしとなり、言葉となる、観想的な単純を真実に証しすることができます。


2.入会者の減少と堅忍の欠如

「清貧を気遣って、フランシスコは兄弟たちの数があまりに多いことを、会のために恐れていました。なぜなら、それは、実際に富を表さないにしても、富のように見えるからです。そこで彼は、『ああ、この世が、小さき兄弟と時々しか出会わず、彼らがそんなに僅かしかいないことに驚く日が、いつか来れば・・・、いや、来ますように!』と、言うのが常でした」(Uチェラノ70)

 その日が来ました! 多くの管区では、入会者の数がいちじるしく低下しています。他の管区でも、既に僅かな低下が見られます。そして会全体の中で、特に新しい世代において、有期あるいは荘厳誓願の初めの数年間に、堅忍の欠如が認められます。この現象は、殆どすべての修道会を害していますし、司祭職や結婚の召命にも当てはまります。この現象については多くの理由があります。その中の幾つかは、新しい諸状況、或るメンタリティー、そして至る所-あらゆる文化の中に-存在する、社会的な行動形態と関連しています。「グローバリゼイション〔地球規模における統一〕」という台風は、誰をも無傷のままにしておきません。それに加えて、各々の文化は、自分の特殊な諸問題と取り組まねばなりません・・・。

 けれども、私たちが自分の固有の実存的・内部的現実から出発して、入会者の減少と取り組み、解決しなければならないことは明らかです。教会と本会の最近の文書は、私たちの修道生活の霊的・カリスマ的質について、できるだけ早く再検討し、養成プログラムの全体を見直すようにとしきりに促しています。幾つかの管区の養成プログラムは、幾らかの表面的な手直しがあったとしても、50年前に作られたもののままです・・・。

 殆どすべての管区が、会員数の減少と生き残りについて、くよくよ考えています。こうした「数字強迫観念」と「生き残りについての極度の不安」は、殆どすべての管区を苦しめている症候群です。この病は、管区家族と会全体を客観的にかつ霊的な晴れやかさをもって再建する妨げとなっています。

 「量」の論理は、神の創造性に矛盾し、妨害することさえあり得ます(士7:1 参照)。フランシスコにとっても同様に、過剰は富となり、自足となり得ます(訓戒 5)。

 入会者の減少に対応した質の良いプログラムは、確かに必要不可欠です。しかし本質的なことは、我々の会則・会憲・その他の文書上で完全に確立されている「生活プロジェクト」の基づいて福音的生活を常に証しすることです。

 勿論、主こそが、お望みの人を、お望みのままに、お望みの時に、招かれます。しかし、入会者を得るために主に祈り(マタ9:38)、主が招かれた人々を受け入れ、私たちの生活と言葉とによる福音的な証しによって彼らと共に歩む義務が、私たちに負わされています。

 私たちは、この10年間に辿ってきた道について、自分達の過ちや失敗について、充分に問いかけてきました。統計のお蔭で、将来私たちを待ち受けていることを予測さえしました!。
 しかし今、私たちの努力を現時点に傾注する時が来たのです。恐れずに、しかし今日私たちがその一頁を書いている歴史に対する責任を自覚しながら、私たちの努力を現時点に注ぎ尽くしましょう。


3.熱意と創造性の欠如

 
「先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。・・・そういうことはみな、子供の時から守ってきました。・・・イエスは彼を見つめ、慈しまれた。・・・あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・・それから、私に従いなさい」。(マコ10:17-22)

 若者もそれほど若くない者も、私たちは皆、金持ちの青年のように、自分自身のため、また他の人々のために、何を「しなければならない」のか、と尋ねます。「行うこと」の中に、私たちの自己実現とアイデンティティーを探すのです。自己実現とアイデンティティーを、観想的な「行い」であっても、もっと多く・もっと良く「行うこと」の中に捜し、私たちを更にもっと多く「行うこと」へと常に押しやる「行動主義」について、その真偽をあまり問いただそうとしません。主は確かに、このダイナミズムを高く評価してくださいます。しかし、主が何よりもまず私たちに求められるのは回心です。「やり直す」ために、全く「やめる」ことです(ルカ10:41 参照)。全てをやめることができるとき、「行うこと」は、主の言葉に耳を傾けること、神との我々の本物の関係、兄弟的共同体における関わりと交わりの生活などの優先的諸価値をぼかしてしまうことはありません。ですから、まず「すべてを放棄」し、主に従い、主に固く結ばれなければなりません。それから、福音宣教という公道が私たちの前に開けるでしょう。その道に私たちは「二人ずつ」(つまり、兄弟的共同体において)入っていくのです。「兄弟たちが万事に越えて憧れ望まなければならないことは、主の霊とその聖なる働きを持つことである」(会則10:8)、ここにこそ、真のアイデンティティーを見いださなけばなりません。それゆえ、このアイデンティティーのうちにこそ、私たちの「行い」を内接させなければなりません。それは、司牧の仕事を、あたかも「自己」を前面に押し出し、自分を「事業主」と考えてしまうごく一般的な誘惑に、もっとたやすく打ち勝つためです。
 どんな形の福音宣教も、御自分のぶどう園で何時間か働くようにと、私たちをお遣わしになる、神からの無償の呼びかけの結果であることを、忘れることは許されません。ですから、福音宣教の決定的な時は、「散らばっていく」時でもなければ、自分たちの働きの結果を見てそれに満足する時でもありません。そうではなく、主と再びまみえ、「主が私たちの中で、私たちを通して、時々に行い・語り・働かれるすべての善」を主にお返しする時です(非裁可会則17:3-5、マコ 6:30-31 &ルカ10:17-24参照)。私たちは聖霊の共働者であり、聖霊が常に我々の歴史の主役としてとどまられます。このように物事を見るとき、私たちの固有のアイデンティティーを、従属―神及び兄弟会への従属―に根をおろした「行い」のうちに見いだし、感嘆します。この従属によって、私たちは、常にもっとアガペ、つまり自由で無償の自己贈与とされ、神の国の到来のために神の人格的な「プロジェクト」とされるのです。

 その時、私たちの司牧の仕事は、主との、また兄弟たちとの交わりの表現となります。イエスによって、その名において遣わされた弟子たちのそれにも似て、司牧の仕事は、その真の豊かさと創造性と使命を取り戻します。神が私たちに寄せてくださる超自然的信頼のお蔭で、私たちも奇跡を行うでしょう!(ルカ10:17-24)。

 ところが、「能率」―あまりにもしばしば唯一の人間的な物差しで測られる〔能率〕― を誇張してしまうことで、我々の生活形態の基本的な諸価値の間の調和がなくなると、遂には、自分のに対して深く幻滅を感じてしまい、深い内的な混乱が引き起こされてしまいます。その結果、内的一致がうせ、活気がなくなり、会員数の減少によって漸進的な機能不全状態が惹き起こされます。すると、会の中または外のいずれかで、一種の「救いを求める外出」、個人的な「生き残り」のための手段を捜すという誘惑にかられます。さもなければ、決まりきった・だれた生活を送りながら「かつては良いものだったが今はもう時代遅れの伝統でしかない組織」という避難所に「腰を据える」ことになるでしょう。

 実際に、兄弟たちがただ一人で専念している活動分野(愛徳の業や司牧活動)が数多くありますが、率直に言って、時にはそれが、彼らの個人的な問題から脱出する、唯一の門のように見えます。しかし、自分の創造性を発揮するために「単独で行う」ことが、本当にどうしても必要でしょうか?誰もその兄弟の惜しみない心や成功を、また結果さえ否定はしません。しかし、彼らが同じ管区・同じ文化に属していてもいなくても、最も近い兄弟的共同体との共働と交わりの絆を頻繁に保たずに、どのようにして兄弟として生きることが出来るでしょうか。その点に無関心になることは、フランシスカンの召命の根本的な諸価値に見向きもしないことになるでしょう。私たちの召命は、「私たちの主イエス・キリストの聖福音を、従順(従属)のうちに、何も自分のものとせず、貞潔のうちに生きること」(会則 1:1)にあるからです。
 以上のような問題ある態度をとる兄弟は、若い世代の人々を当惑させ、失望の憂き目を見させるという危険を招き、彼らにフランシスカンの真のアイデンティティーを隠してしまいます。その結果、若い兄弟を自分たちのフランシスカン生活に「都合のよい手直し」を捜すようにと、そそのかすことになります。


  III  敢えて行いさえすれば・・・

「小さき人々の兄弟である皆さん、さあ、民衆のさなかに入って行きなさい。飼い主のいない羊のように、散り散りになり、疲れ果てている群衆の所へ、イエスが同情された、この群衆の所へ行きなさい・・・。さあ、現代の男性や女性に出会いに行きなさい! 彼らがあなたがたのところに来るのを、待っていてはいけません。あなたがた自身が、彼らを追いかけて、一緒になろうと努めなさい! 愛が私たちをそこに駆り立てるのです・・・。全教会はあなたがたに感謝するでしょう」
(ヨハネ・パウロ二世のフランシスカン家族への呼びかけ、ローマ、1982年11月15日)



 フランシスコがしたように、私たちが自分自身を残りなく神に委ねることを敢えて行いさえすれば、神が、私たちと共に・私たちを通してなさる不思議な業と奇跡を、誰が数え上げられるでしょうか。我々の壊れやすさ・限界・裏切り・否みにも関わらず、神は私たちに対して信じられないほどの信頼を寄せておられます…。神は、私たちの年齢・疲労・迷いにも関わらず(エリアの物語を見ること、1王19章)、私たちの「健康を回復させ」、御自分の家の門を開き、私たちを全世界に派遣しようと急いでおられます。私たちは主に対する信頼を取り戻し、フランシスコのように、自分の生活の中に神の生き生きした・父のような現存を発見し、経験しなければなりません。

 フランシスコは、「天におられる父」にじっと目を注いで、回心の道を歩みます。彼は新しい「望みの洗礼」、主にのみ属したいという望みによって歩みつつ、こうして、アガペ、すなわち自分自身が最も小さき人々(ハンセン病者)への無償の贈り物となりながら、教会の懐の中で、神の国とこの世のために、「裸で、十字架につけられている裸の主に従います」(大伝記 4:2)。彼は自分の町の城壁の外に出ます。アシジを離れます。

1.多様性における一致を再発見する

「兄弟的交わりの生活は、兄弟たちが、会則と会憲を守ることにおいて一つの心であること、また、類似した生活様式を持つことを求めます。それはまた、兄弟たちが共同生活の諸活動、とりわけ共同の祈り、福音宣教、そして家事に参加することを求めます。同様に、どのような名目で得たものであっても、報酬や施しなど、すべての収入を共同体の使用のために提供することを求めます」(会憲42:2)


 まず最初に私たちは、本会・総長たち・各理事会・共働者たちに対して、感謝しなければなりません。彼らは、公会議後のこの困難な時代に、私たちを導いて、フランシスカンのアイデンティティーを徐々に再発見させてくれました。堅く根拠づけられ、現代的にされた会憲のお蔭で、またその他の多くの文書のお蔭で、私たちフランシスカン家族は、独自の姿を明確に再発見した、と今や確信をもって言うことができます。会憲や他のすべての文書が、我々の「生活形態」、初期養成と生涯養成の領域、我々の「存在理由」としての観想に深く根ざした福音宣教の領域などを明らかにするために、徐々に貢献してきました。ですからこんにち、「本会の福音的生活プロジェクトが明確に示されていない」などとは、誰も言い張ることはできないのです。まだ私たちがうまくできていないことは、〔その福音的生活プロジェクトを〕実存的なプロジェクトにすることや、新しい生活様式を形作ることです。しかし、この近年にフランシスカンの歩みを方向づけたこれらの文書によって喚起された問題は、ある人々が思っているように、多すぎることでも、冗長であることでも、明瞭さに欠けることでもありません。真の問題は、兄弟たちが文書で喚起された問題を目にするときに、ただ「文書」として受け止めるだけで、自分達の具体的な日々の生活を再建し、再び活気づけことを助ける必要不可欠の道具として受け止めないことに由来します。

次の簡単な質問を自分に問い掛け、誠実に答えてみましょう。
「いつ、私たちは自分達の会憲を最後に読んだだろうか?」

 私たちが生きている消費社会が差し出す無数の誘惑と、〔悪い意味での〕和解が、私たちの日常生活を寸断し、粉砕してしまう理由の一つとなっています。この「地球規模で統一された」世界を特徴づける見せ掛けの文化・即席の文化・外面の文化・能率重視の文化を、私たちは、内面性の文化・沈黙の文化・謙虚に耳を傾ける文化・神の実り豊かさの文化に取り替えるべきです。決まりきった自明の論理や、「いつも行われてきたものだけに自分自身を限定する」論理を捨てて、様々の失敗をしたとしても、そこから引き出された教訓による信頼と希望の論理に回心しなければなりません。
 私たちの急務は、平和にされた・一つの・同じ現実のうちに、信仰と生活(信じていることと行うこと)を統合することをわきまえて、堅固な霊的養成の土台の上に、内的統一を再建することです。この平和にされた・一つの・同じ現実において、永遠の「良きおとずれ」として受け留められる神の言葉と、キリストに従う者の旅路の糧として受け留められるエウカリスチアとが、個人と共同体の再建の土台となるでしょう。

 歴史上のあらゆる出来事は、「私たちを神に導く道」であり、「起こるものごとはすべて、崇めるべきもの」(レオン・ブロア)であるということを再度理解し、自分の生涯と歴史とを導く神と「交わり」ながら、すべてを統合することが、大変需要奈ことなのです。
 私たちは、次の真実の規律によってしか、そこに到達できないでしょう。

@ 時間と場所と人をこの努力に投資すること。

A とりわけ自分の心を、再び「神のための家そして住まい」(非裁可会則 22:27参照)とし、自分の行動と感動性の中心とすること。

 毎日、私たちは主に、「あなたの御心だと知っていることを行い、あなたのお喜びになることを常に望む」恵みと力を(全兄弟への手紙50)願わなければなりません。

 私たちを一つに結ぶ福音的生活プロジェクトに絶えず立ち戻る努力を私たちは怠りました。一人ひとりの兄弟、一つひとつの兄弟的共同体、そして各々の管区が、自分固有の文化に基づきすぎてしまい、自分達が普遍的な兄弟的共同体に属していることに害を及ぼしながら、さらに自分の固有のプロジェクトを作り上げるのを大目に見る、という危険を犯しました。これは重大です。

 問題なのは、明らかに様々の文化を蔑視する「窒息させるような統一」を創設することでも、法律的あるいは君主的中央集権を促進することでもありません。むしろ本当に私たちがカリスマに忠実であるかどうかです。もし私たちが、相互の関わりを持たず、もっと悪いことに、会則と会憲が私たちに要求する建設的な対話と兄弟的な奉仕とを妨害する差別と偏見を私たちの間に増大させるなら、私たちは「兄弟」だと言えません。互いに心を開き・歓迎し・対話し・交わることは、兄弟的生活の基礎そのものを構成しており、私たちに共通の福音的プロジェクトを明確にし・強化し・実行するのに、不可欠の手段です。これらは、私たち自身と他者への信頼を回復させる、創造的ダイナミズムを再生する必要条件です。

 総本部と諸管区との関係、諸管区とクストディア間の関係、そして時には同一管区内の諸修道院の関係が、実際に「ばらばらになっていた」ことが認められます。私たちの多様性が、分裂の要因である代わりに、建設的な豊かさに再びなるよう、一致に戻り、その多様性を和解させることが、こんにち、絶対に必要です。

次のことは、どうしても必要です。

@ 兄弟会におけるあらゆる職務や肩書、個人のあらゆる経済的「収入」、またいわゆる聖職者の・或いは文化的・人種的なあらゆる優越性のかなたに、「小さき兄弟」のアイデンティティーを回復すること。

A 私たちのフランシスカン生活の多様な表現(観想的、旅人的、恵まれない人々と生活を共にすることなど…)を生じさせ、歓迎し、支えながら、多様性における一致を育成すること。

福音宣教の様々の可能な形態についても同様です。そのために、我々のカリスマの基本的な諸価値を傷つけることも、普遍的兄弟会や地方の兄弟的共同体の一致を損なうこともない、多様性における一致を育むべきです。

2.我々の誓願の意味と解放する力を再発見すること

「小さき兄弟の会則と生活は、私たちの主イエス・キリストの聖福音を守り、従順のうちに、何も自分のものとせず、貞潔に生きることである」(会則 1:1)

 
「修道生活の最高の会則とその究極の規範は、福音の教え通りにキリストに従うことにあります。キリストに従うという、この熱望こそが、世紀を通じて、教会の中で、貞潔・清貧・従順のうちに営まれる生活の要求を生んできたのではないでしょうか」。(パウロ六世、福音の証し、12)

 キリストに従う歩みにおいて、修道誓願は、こんにちでも神と兄弟たちに対する私たちの全面的な自己贈与の表現となっています。修道誓願は、権力・所有・快楽の偶像崇拝から私たちを解放し、人間の建設的な諸価値を肯定し、支配と搾取というあらゆる利己的な欲求から解き放たれた出会いと関わりを私たちにもたらします。

 誓願は、他人との関わりにおいて、本物の愛(貞潔)、具体的な連帯(清貧)、求めに完全に応じる心と責任(従順)への道を私たちに開きます。誓願は、神に全面的に従うことと、フランシスカンとしての福音的生活プロジェクトを固守することを証しし、私たちの日常生活に統一と確かさを与えます。
 あらゆる文明におけるのと同様に歴史においても常にそうであったように、誓願は、矛盾と希望のしるしとしてとどまります。私たちが生きている世界は、常に新しい・矛盾し合う・途方もない欲望の群れが絶え間なく引き起こされているのを目にしています。これらの欲望を満足させるために、世界はスーパーマーケットに変化し続けます。修道誓願が、安定した一つの「生活形態」の中で、誓約に堅忍することを意味するなら、それは流行遅れです。そして、もし私たちが、現代人の自由と連帯と真の幸福への熱望に実体を与えることができないなら、彼らは決して修道者を信頼しないでしょう。


従順の誓願

「貴婦人聖なる愛徳よ、主があなたを、あなたの姉妹聖なる従順と共に、お守りくださいますように。・・・聖なる従順は、体と肉の・あらゆる望みを打ち砕き、克服したその体を、霊と兄弟とに従わせる。従順によって、人は、世にいるすべての人に服従する」(諸徳への挨拶 3,14-16)

 「修練の年が終わると、彼らは、この生活と会則を常に守ることを約束して、従順の生活へ受け入れられる」(会則2:11)。


 
私たちの生活形態は「従順」と深く結びついています。「〔兄弟たちは〕聖福音と自分たちの生活形態〔を守るという〕誓願によって、約束したとおり主の戒めに堅忍しているなら、真の従順にとどまっており、主から祝福されていると確信できる」(非裁可会則5:17)。

 従順は、私たち皆がじっと目を注ぎ、従う者も権威ある者も皆、絶えず参照しなければならない地平と決勝点を私たちの「生活形態」にもたらします。フランシスコの生活を一変させたのは、御父に対する愛と、御子イエスに徹底的に従いたいという意志でした。その姿勢を兄弟たちに模範として残しました。フランシスコが抱いた同じ愛と意志が、各兄弟の生活を大きく変革しなければならないでしょう。権威を行使する者が、兄弟たちの「足を洗う」ために「仕える者」となるときにこそ、彼に従う者は、目上において自分を余すところなく神に委ねることができます。なぜなら「目下の者たちは目上のうちに、もはや人間ではなく、その方への愛のために自分たちが従うことを選び取った御方を見ているからです」(Uチェラノ151 )。事実、フランシスコは、従順のうちに、愛である神に直接かかわる真の対神徳を見ています。神だけが従順の対象であり、神への愛だけが従順の動機です。被造物において「従順」という言葉は、自分の創造主であり父であるお方への愛を表現することを意味します。愛と従順は一つで、同じものです。だからこそ、フランシスコは従順と愛を、双子の姉妹とするのです(諸徳への挨拶3 参照)。従順は、兄弟会に自分を無条件に「委ね」、同様にまた「神が私たちにお与えになった兄弟たち」(遺言14)の一人ひとりを全面的かつ率直に受け入れることを意味します。「個人的には霊的にもっと好ましい善」に対しても、私たちは、兄弟会共通の益のために、自分を目上に委ねるよう招かれています。「これは、私たちが神と隣人とに負っているものを、彼らに返す、愛に満ちた従順です」(訓戒 3:6)。

 本会の総長は聖霊です(2チェラノ 193参照)。すべての兄弟は、いかなる例外もなく、聖霊に従い、自らの福音的生活プロジェクトに奉仕しなければなりません。そして相互の奉仕と従順によってこそ、愛に成長します(非裁可会則5:14参照)。

 しかし、これらすべての考察は、独立と自由を渇望している現代の人々に、今なお、意味があるでしょうか?権威はこんにち、その真実の意味を失い、家族においても・学校においても・政治においても、本会においてさえ、もう「流行」遅れです。人が今でも認める唯一の「権威」は、恐らく経済的な力でしょう! それで、当然のことながら、従順も同じ危機にさらされています。しかし、どんな組織においても、従属しないで生きていける人は誰もいません。隷属の形態は、こんにち極めて数多くあり、極めて強く束縛するので、そこからどうすれば自由になれるのか分からないほどです。私たちには、なし遂げるのに困難で慎重を要する任務があります。つまり、個人と共同体との間の調和のとれた関係を絶えず追求するという任務です。フランシスコはそれを試み、結論を出したというより、それを統合しました。つまり、主への愛と主の唯一の霊に対する従順から霊感を受けることで、個人の良心と組織の権威が、相互に補い合い、福音的プロジェクトの中で調和するように努めるべきだというのです。人間は、自分が選び取った何か根源的な諸価値に根ざせば根ざすほど自立していて自由だと、感じていくものです。この場合、従順はもはや自分の固有のパーソナリティーを捨てることではなく、イエスがなさったように、それを一つの大義への奉仕に据えることを意味します。

 非常にしばしば「私の利益」をはかるために、他人の権利と自由を考慮に入れないで、「私の」権利、「私の」自由を要求するなら、この要求は、実際には暴力や不正義に変わります。「個人の経験」は、「他者との関わりにおいてのみ、正当だと認められる」と言われているではありませんか。時々、私たちは「私的次元」に何かしら自分の行動を入り込ませ「私を自由にさせておいてください。そうすれば、私もあなたの邪魔をしません…」などと言います。しかし、この種の自由は、私たち共通の福音的生活プロジェクトと付き合わせて検討してみると、単に自分の利己的な目論見を果たすためにしか自分が存在しないという咎を受けることになるでしょう。
 良好な相互関係を確立するに当たって、権威には、果たすべき重要な役割があります。それは、奉仕と譲渡という言葉に込められている神的な意味を、権威に返すために、私たちが再考し、「再福音化」しなければならない役割であり、固有の意味で、霊的な使命です(会憲 45-46)。預言者たちのように、この使命の「とりこ」になることは、兄弟的共同体にとって、一つの保障(侵されないように保護して安全をうけあうこと)となります。放任主義と同様に権威主義は、兄弟的共同体の良い歩みと個人の進歩を麻痺させ妨げます。権威主義はの関係に不信を生じさせ、メディアが褒めそやすアイデアやモデルについては、柔弱な順応主義に道を開きます。これは、すべての創造性の死です。
 聖霊によって導かれるままに自身を委ね、他者(理事・院長・養成担当者・その他の兄弟たち)に耳を傾け、彼らと力を合わせて働くとき、権威は私たちに新しい地平を開くことができます。権威は、私たちを目的へ導き、それを達成するよう私たちを奮い立たせます。権威は、兄弟会における福音的な選択を容易にし、またそうするように仕向けます。何かことを「行ったり」、命のない組織を保持しようとしたりすることより、兄弟たちの間で、様々なアイデアや動機づけを誕生させようとして、いっそう配慮します。また、権威は、兄弟的共同体における刷新と創造性のために必要不可欠な「信頼と所属意識」とを造りだしていく基となりえます。
 しかし、嘆かわしいことに、実に大勢の管区長や院長には、兄弟たちのこのような積極的な奉仕を引き出すために必要な自由・活気・熱情が欠けています…。


「何も自分のものとしないで」

 
「ですから、あなたたちのものを何も、自分のために取っておかないようにしなさい。それは、御自身を残りなくあなたたちにお与えになる方が、あなたたちを残りなく受け入れてくださるためです」。(兄弟会への手紙29)

 清貧の誓願は、蓄積しようとする放縦な欲望、常により多く、常により良いものを、常に今すぐに持とうとする飽くことのない渇きから私たちを自由にします。この誓願は、私たちをこうした欲望から解放します。なぜなら私たちは、神のうちに、「私たちにとって十分な全き富」(神への賛美 4)を見つけたからです。この誓願は、あらゆる所有の隷属から、私たちを解放します。つまり、私たちはもはや、私たちが住んでいる家、している仕事、「受けるに値する」と思っている物質的或いは心理的「代償」に、相対的な価値しか与えないのです。「持っているものをすべて捨てる者は…」と言われるとき、主は私たちに、この一つのもの或いはあの一つのものではなく、すべてのものを捨てるよう、求めておられるのです。なぜなら、主は私たちの「すべて」になりたいと望まれるからです。 
「兄弟たちは、家、土地、その他いかなるものも、何一つとして自分のものにしてはならない」(会則 6:1)。

 ここでの問題は、個人に中心を置いた禁欲ではなく、正義・連帯・分かち合いにおける他者への愛であり、個人的かつ共同体的自由に向かうたゆみない歩みなのです。この歩みが、我々の宣べ伝えるものをもっと信じうるものとするでしょう(マタ10:7-10 参照)。

 私たちは、収穫とぶどう園の支配者であり主である方から、旅人として、福音を宣言するために遣わされているのですから、私たちがしている仕事も、一緒に生活している人々も、また私たちが「手に入れる」結果も、「我々のもの」だと見なすべきではありません。

 勿論、私たちは、真剣に骨身を惜しまず働き、主から受けた賜物を実らせなければなりません。しかし、成功を唯一の評価基準と見なすことなく、働くべきです。私たちは常にすべてを、私たちの福音的・共同体的生活プロジェクトに基づいて評価しなければなりません。我々の福音的・共同体的生活プロジェクトが、私たちは主に属しており、「我々の仕事」には属していないことの、しるしと証しになるためです。その時、私たちは、アブラハムや使徒たちやフランシスコのように、「主が私たちに示される」(創12:1)、未知の地平に向かって行くために「自分の国を去る」用意ができているでしょう。

 私たちの兄弟関係が、金銭や物についての自由の無さの名残をとどめていることは、珍しくありません。私たちは往々にして、必要なもの・有用なもの・余分なものを識別できなくなります。私たちは、この消費社会のメンタリティーにたやすくだまされて、必要なものにこと欠く人々に対して負っている正義と連帯に欠け、フランシスコが命じているように(非裁可 17:17)、すべてのものを神に「返す」ことを忘れてしまいます。金銭の使用についても〔会則によって、自律的ではなく〕本来は他の人に依存していることを忘れてしまっています。

 管区は貧しいのに、その管区の兄弟たちや兄弟的共同体について言えば、豊かであるという場合が時に見受けられます。このような現象は、単に清貧の欠如だけでなく、正義・連帯・兄弟的交わりの欠如をも構成します。ある幾つかの管区は、普遍的兄弟会(本会全体)の必要に心にかけません。これらの管区の側から言えば、単なるもの忘れでしょうか、それとも信頼の欠如でしょうか、普遍的兄弟会に所属しているという感覚の欠如でしょうか。

 最近の地震の犠牲になったアシジの姉妹たちを助けるために、アフリカのクララ会修道女たちから、慎ましい寄附金が総本部に届けられたのを見て、私たちは感嘆しました。ローマを通せば、彼女たちの援助は、きっと届けられるのが遅くなり、個人的色彩がぼかされるでしょう。しかし、こうした方法は、援助を与える者と受ける者との間に、いかなる従属関係も作らないという点で、確かにもっと福音的です。実際、贈り主の側も受け取る者の側も、「贈り物」が引き起こしうる曖昧さを、よく知っています…。

 ある兄弟たちは―幸いに、少数ですが―寄贈された金品や、自分たちの仕事(しばしば、それがまさに「儲かる」ものなので、野心を燃やして捜し求めた仕事)のために受け取った報酬を共同体に差し出すのを嫌がります。こうして彼らは、「自分の財産」を直接に管理する者となります。これは、会則違反であり、兄弟的生活を損なうことになります。金銭によって引き起こされる何という乱用! 福音的でない、命の通わぬ組織の犠牲になっている、何という兄弟たち! 神が私たちをお赦しくださいますように!

 清貧の誓願が私たちに与えてくれる自由は、私たちを、交わり・連帯・分かち合いの人とし、私たちが、この時代の人々の間に、新しい・喜びに満ちた・預言的な関わりを確立するのを助けてくれるでしょう。

貞潔の誓願

「見張り塔の歩哨のように(イザ21:8)、厳格な規律によって、フランシスコは、最大の注意を払って体と魂の清さを保つよう、見張っていた」(大伝記 5:3)

 貞潔の誓願も、安易な・変わりやすい楽しみをいつも追い求めている世界の中で、その預言的機能を取り戻すことができます。フランシスコによると、「純粋な心と精神をもって、生ける・真の神である主を絶えず礼拝し、眺めている人こそ、清い心を持っているのです」。 (訓戒16:2)


 「三人の伴侶の物語」は、フランシスコの回心の話の中で、「その時から、彼は自分自身を崇めるのをやめた」と記しています。貞潔の誓願は、本来、ナルシシズム(自己陶酔)と未熟さの残る愛情を徐々に浄化していくことに向かいます。貞潔は、私たちを導いて、成熟した・無償の・私心のない・あらゆるエゴイズムから解放された・他の人々との関わりを、確立し強固にします。自身の性を管理することは、自身の関わりを管理するのを学ぶことを意味します。その中心は、もう一度、「甚だ心地よい」愛を発見することであり、その愛に自分の全生涯を献げることです。貞潔の誓願は、確かに「十分に」愛されているということの自覚の上に実現します。この自覚が、人を幸せにし、その人のうちに新しい命・愛・他の人々との真実な交わりを生み出します。

 再びフランシスコに聞きましょう。「いと聖なる父よ、あなたを常に思いめぐらすことによって、心を尽くしてあなたを愛し、あなたを常に憧れ望むことによって、魂を尽くしてあなたを愛し、私たちの意向のすべてをあなたに向け、万事においてあなたの栄光を求めることによって、精神を尽くしてあなたを愛し、私たちの霊魂と体のすべての力と感覚をあなたへの愛の奉仕だけに用い、それ以外のどんなことにも用いないことによって、力を尽くしてあなたを愛せますように」(主の祈りの釈義 5)。「肉体的なもの」は、貞潔のうちに「霊的なもの」の秘跡となります。私たちの魂も体もすべてが、貞潔において、利己的で限りがあり決して満足することのない快楽のうちに行われる肉体の交わりよりも、もっと豊かに報いる幸せに満ちた現実と交わりとを明確に表現する言葉となります。

 確かに、このような頂点に一日では到達しません。とりわけ、先ず初めに、奉献生活に内在する、ある種の孤独 ―「主の園」(イザ51:3) ― のうちに生きることを受け入れなければなりません。私たちはまた、独身者も結婚生活者も、自分の情的機能を消すことも、自分の性を完全に支配することも決してできないことをよく知っています。しばしば、まさにこの領域においてこそ、自身の限界を発見するのです。しかし、それは、私たちがキリストに向かって歩むのを妨げません。キリストは「清い人」や完全な人を招くためではなく、レビやザアカイやサマリアの女のような、罪人たちを回心に招くために来られました。自分のすべての欲望と傾向―異性愛であろうと、同性愛であろうと ―の統合という、常に骨の折れる探求の中で私たちは、自分の傾向と妥協して自らを卑しめることも、自分の性と貞潔を配偶者と結びつけて暮らす「二重生活」を正当化しようとすることも許されません。フランシスコは私たちに答えます。「世を捨てた今、私たちのなすべきことは、主の御旨に従い、主に喜んでいただこうと努めることだけである」(非裁可会則22:9)。

 福音的生活を抱きしめたいと望む人に、フランシスコはただ一つのユニークな条件を課します。回心です。つまり、今後、主の方に全く向きを変えた、自分の生活の徹底的な「再−方向づけ」です。すべての罪人を赦し、彼らに憐れみ深くあるようにと、フランシスコが私たちに求めているのは事実です。それにも関わらず、彼は罪に固執する者を兄弟会から追い出します。「なぜなら、私たちが肉に従って生きるとき、悪魔は主イエス・キリストへの愛を私たちから取り除こうと望んでいるからである」(非裁可会則22:5)。私たちは皆、この徹底主義を目指すべきで、それに近づくよう互いに助け合わなければなりません。私たちは、誓約をおろそかにする兄弟たちに責任があります。彼らに対して「兄弟的な矯正」の義務があり、彼らの回心の道を憐れみをもって共に歩む義務を負っています(会則10、訓戒22、小伝記 14-17)。

 私たちが奉献された者の誓約を生きることができるためには、晴々とした兄弟的生活が、不可欠の支えです。私たちは、互いに「頼りにし合って」おり、美しい誓願文に従って、自分達の生活プロジェクトに不忠実なときには、互いに誤りを「矯正し合う」責任を負ったのです。残念なことに余りにもしばしば、兄弟的共同体の中で、批判と中傷が「兄弟的な矯正」に取って代わってしまいます。兄弟のある者たちは、もし適切な時に愛をもって助ける用意のある誰かに出会っていたなら、多分、彼らの召命を捨てなかったでしょう。

3.私たちの生活プロジェクトにその真正性と信憑性と可見性を取り戻す

「聖別奉献された者としての我々の特性は、現存する神を見いだし、その神に聞き、神を観想し、我々の生活によって神を証しし、我々の言葉によって神を宣べ伝えることです。未来は、複雑なこの世界における神の現存を証しする、我々の能力に大いにかかっています。このことを、聖フランシスコが私たちに残した模範に基づいて、貧しいイエス・キリストに従う我々の歩みの中で、神についてする体験を、我々の生活の中で表現しながら、行うのです」。 (H. Schaluck 、全地を福音で満たすために、111 )

 私たちの福音的生活プロジェクトが現代世界のために常に有効な和解と解放のメッセージであることを、もし私たち兄弟的共同体が本当に信じていたなら、もし私たちの行動がこの確信から全面的に霊感を受けていたなら、そしてこの確信を自分たちの生活の中に受肉させようと努めていたなら、多くのことが本会と世界とにおいて変わっていたでしょう。世界の方々で、兄弟達が自分の召命を大切にし、それに忠実であることを私ははっきり知っています。しかし、私たちの福音的生活プロジェクトが世の中で生き生きとした・ダイナミックな・活動的な現存となっていません。私たちはまだ精神的或いは環境的構造を越えていないし、(現にあるものをただ維持するようにと私たちを唆す)生き残りに関する様々な不安を越えていないし、自分達の過去に結びついている誤った考えや恨みを越えていないし、私たちの年齢や数字上の優勢を気にする意識を越えていないし、特に私たちの「存在」と「行為」とを分け隔てる溝を越えていないのです。

 私たちが応じなければならない重大な挑戦は、多分、私たちの「可見性」、世界に受肉した私たちの「現存」ということへの挑戦でしょう。この現存を、現代世界に受肉させるようにと、私たちは今日招かれています。現代世界は、途方に暮れており、救いを切望し、私たち〔の心〕にあるもの・私たちが信じているもの・私たちがそのために生きているものを具体的に示し得る、本物のしるしを熱望しています。

 私たちを生かす霊性を世界と分かち合うことができるために、次の三つの条件が是非とも必要です。

@ 私たちの固有の・霊的・カリスマ的アイデンティティーが、明瞭であり、本物であること。

A 対話を可能にする手段を知り、識別すること。手段とは一つの言語と複数のしるしを意味しますが、この言語としるしは、現代人に理解できるもので、彼ら固有の文化の根本的な諸要求に基づいて、我々のカリスマ的富となった神の賜物を、彼らに伝えることのできるものであるべきです。

B 私たちの理想を実現し、理解し易いものとしようとするこの歩みに、信仰をもって取り組ませる、個人の、そして共同体の、決断と勇気。この歩みは〔神であるみことばの〕受肉の歩み以外の何ものでもありません。そのとき、私たちは、受肉のもつ神の論理をすべて受け入れながら、歩み続けるのです。

 私たちフランシスカンにとって、私たちがその中で生きている世界との対話、特に若者の世界との対話は、他のものの中の任意の一つの選択ではなく、真に必要な一つの要求なのです。主は私たちを世界に遣わされました。主は、私たちを神の人として、兄弟的共同体の中で、小さき者として生きさせながら、変動のさなかにあって自分を知ろうと努めている世界に、宣教師として遣わすために、選ばれました。私たちは、その世界に、もう一つの・もっと人間味のある・新しい空間を開くように、そしてその空間において、対話と連帯の文化、相違を受容する文化を創設するようにと、呼ばれています。

 ですから世界もメディアも、「グローバリゼィション〔地球規模の統一〕」も、こんにちの若者の精神状態も、これを「悪魔視する」など、とんでもないことです。まして私たちを「粗悪品」にしてしまい、なんでも呑み込み、何でも真似し、何でも吸収し、身も魂も乱入されるがままになることなどは論外です。重要なことは、むしろそれらに対して、批判的で積極的な、正しい根拠に基づく態度を身につけることです。この態度は、そこで出会うしるしが神の現存かどうかを、はっきりと平静に識別できるようにさせてくれます。

 イエス御自身も、群衆の方へ行き、歴史と連帯されました。しかし、群衆や歴史が御自分に差し出す、あやふやなものについては、距離を保つことも知っておられました。

 全大陸のこんにちの男性と女性の間で、福音的なこの歩みを再び始めようとする心構えと準備のできている兄弟たちを自由にし、励ましましょう。その兄弟たちに信頼を寄せ、必要なら兄弟的な矯正を与えながら、彼らと共に歩み、彼らを支えましょう。私たちの心に、すべての兄弟の心に、聖霊の場を開きましょう。それは、私たちの間に新しい預言者、預言的な新しい兄弟的共同体を誕生させるためです。そこでは、本物の人間関係が結ばれ、私たちの霊性が本当に日常生活に「波長を合わせた」ものとなり、最も深い願望に応えるものとなるでしょう。

結 論

「天使は彼女に言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。・・・『どのようにして、そのことが起こりうるのでしょうか。私は男の人を知りませんので。』・・・『聖霊があなたに降る。・・・あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヵ月になっている。神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』・・・」(ルカ 1:30-38)。


 親愛なる兄弟の皆さん、人間に対する神の不変の愛を私たちに思い出させる救いの歴史のこの第三・千年期の初めに、神の母であり「教会とされた処女」(幸いな処女への挨拶 1)である、マリアの模範に倣って、一新された忠実さの道を、一緒に再び歩みましょう。
 マリアにお求めになったように、神が私たちに求められる第一歩は、私たちの固有の力と「可能性」しか考えないときに、また生き残りや人間的な能率などを心配して、私たちの見解が狭くなるときに、私たちが感じる恐れに打ち勝つことです。この恐れから解放される時、私たちは、フランシスコとクララがしたように、未知の・まだ暗い・あまり人の心をひかない・新しい道に、敢えて踏み出す勇気をもつでしょう。私たちは、フランシスコとクララのように、「そのお方から恵みをいただいた」主に身を委ねるとき、主のうちに、主によって、「できないことは何一つない」ことを確信します。

 同様に重要なことは、私たちの召命のはじまりを記憶に呼び戻し、或る日、私たちが聞いた主の呼びかけ、完全なおまかせのうちに受け入れた御言葉を思い出すことです。と同時に、復活後、途方に暮れていた弟子たちの真ん中に立たれたように、イエスが「私たちの真ん中に」、私たちへの贈り物として「再び立ち上がられる」ままにすることです。それは、イエスが私たちの内的・外的な安全装置の「鍵を掛けた戸」(ヨハ 20:19)を開け、その現存によって私たちの生活をひっくり返すことがおできになるためです。

 どのように主が私たちを親しさへと呼ばれたか、私たちがどのように神の御言葉を歓迎し、どんなに喜んで受け入れたか、自分の召命の経緯をもう一度熟慮するのは重要です。イエスが、復活後、弟子たちの間に立たれたように、今ここで、私たちの生活の中に押し入り、「私たちの間に」(ヨハ20:19 参照)お立ちになることを許さねばなりません。主が、私たちの内的・外的な確かさと防御という「閉じてある戸を通り抜けて来られ」、御自分の現存で、我々の生活を徹底的に変えてくださるのを許さねばなりません。

 「どのようにして、そのことは起こりうるのでしょうか。」「神にできないことは何一つない!」もし私たちが、「清められた」心に、私たちを変容させる神の言葉を受け入れ、守ることを知っているなら、もし私たちが、成功を自分で綿密に計算することよりも、むしろ神の現存の効果によって、本当に確信する(「活気づけられる」)ままになるなら、最後に、もし私たちが、自分の計画よりも神の計画の実現に、もっと自己を献げ、その御計画について神に全面的に委ねるなら、〔「神にできないことは何一つない」ことを体験させていただくでしょう。〕

 「お言葉どおり、この身に成りますように。」これこそ、最後に神が、私たちに期待される「降伏」です。それは、私たち自身を全面的に明け渡すことです。これが可能になるのは、私たちが修道誓願の約束を勇気をもって日々新たにしながら、そして神と兄弟である人々との求めに全面的に応えることを、私たちの生活を通して証ししながら、神に確証することによってです。この「はい」は、確かに、マリアの「はい」のように、多くの場合、目ざましい成功の中でよりも、沈黙のうちに続行されるでしょう。しかしそれは、エリサベトの老いや不妊のような、十字架や賤しいしるしによって私たちに語りかけ、働きかける神の実り豊かな沈黙でしょう。まさにこのように、フランシスコは「はい」を理解したのです(大伝記 8:2参照)。

 私たちの老齢化と現在の召命の減少は、まさに、神が本会のこの歴史の曲がり角で、私たちに差し出される「しるし」です。しかしそれらは、諦めや過去の不毛な取り返しに身を委ねるようにと、私たちに誘いかけるしるしでしょうか。これらはむしろ、本物の生き残りへの純正な努力をするようにと私たちを励ますものではないでしょうか。「神にできないことは何もない!」聖霊は、私たちの努力を、命と創造性と希望をもたらす一つの現実に、また何でもおできになる神への喜びと賛美の歌「マニフィカト」に、変容させることができます。かつてなかったほど、私たちはこんにち、新しい時代を告げ知らせる多くのしるしによって、問いかけられ「挑戦され」ています。主への私たちの信頼と固着〔しっかりと繋がっていること〕に根ざした、更に主に従うという我々の決意に根ざした、信仰の観点で、それらのしるしを解釈しながら、これらを新しい命の泉にするのは、私たちの義務です。マリアのように、神の言葉をうちに「宿し」(2全キリスト者への手紙53)、私たちの間におられる聖霊の現存を経験しなければなりません。それは、私たちも、世にあって、よきおとずれの真の担い手となるためです。

 私たちが受けた召命は、こんにちあらゆる所で「神の人々」と、自分の生涯に新しい意義を与えてくれる「霊性」とを捜し求めている現代の男女に対して、私たちに責任を負わせます。彼らの期待を裏切らないようにしましょう! 聖痕を受けたポヴェッレッロに勧めを与えた、一介のお百姓さんを思い出しましょう。「人々が考えているとおり、聖人であるように努めなさい。大勢の人があなたを信用しているからです。お願いです。人々に幻滅の悲哀を味わわせないでください!」(2チェラノ 142)

 もう一度、臨終の時のようにフランシスコは、私たちに最後の挑戦を投げかけます。「私は自分の分を果たしました。キリストがあなたがたの分を果たすことを、あなたがたに教えてくださいますように!」(2チェラノ 214)


総長 兄弟ジャコモ・ビニ OFM
全兄弟のしもべ
Prot. n. 089636