ローマ、2003年 復活祭
親愛なる兄弟と姉妹の皆さん、
わたしたちを過越の死と復活へと導く四旬節の旅路は、回心と解放の特別な時です。それは出エジプトの時、つまり全ての誤りと偶像崇拝からの浄めを通して御父へ立ち帰る時です。
主イエスは、ご自分に従って来るように、わたしたち一人一人を招いておられます。そして、手間取ることお許しになりません。特に次のみことばについて妥協なさいません。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(マタイ19:21)。主の後に従っていくうちに、わたしたちはカナの祝宴、ベタニアでの友情と親しさ、喜ばしい交わり、熱のこもった振る舞い、パンを増やす奇跡等を体験します。また、「エルサレムに向かう」(ルカ9:51参照)主の断固とした決意、そして誤解、迫害、拒否など、ありとあらゆる矛盾をも経験します。
それは、この地上での巡礼につきものの典型的な複雑さなのです。わたしたちは、良いときも悪いときも耐えて従っていかなければなりません。イエスを信じる者になり、その招きを受け入れても、わたしたちが様々な試練や、遅かれ早かれカルワリオの無力さをしっかり受けとめなくても済むようにはなりません。「世の終わりまで、キリストは苦しむ者の中におられる」(B. Pascal)。それは、この地上で忠実な下僕の生き方を通して続く闘いと苦しみなのです。わたしたちがキリストのものであろうと望むなら、キリスト・イエスと同じ思いをわたしたちも抱かなければなりません(フィリピ2:5参照)。弟子たちのように十字架の挫折から逃げ出したり、散り散りになったりせずに、わたしたちが自らの十字架を背負うときこそ勝利が始まるのです。
主イエスの後に従うということは、すべてをかけて、徹底的にイエスご自身につき従って行き、イエスによって変容されるままになる事を意味しています。そういう生き方から自身を除外することによって快適な生き方を選ぶようなことは、わたしたちには許されていません。なぜなら、それは善い知らせ(福音)を一時の宗教的必要を満たすだけの消費物に貶めてしまうことになるからです。本物の信仰は、そのような「お好みサイズに仕立てられた」宗教心を遙かに超えています。
「わたしたちは望みをかけていました・・・」と、失望して悲しい面持ちをしたエマウスの弟子たちは、エルサレムを去るとき話していました(ルカ24:21参照)。希望が試されるのは、わたしたち自身の問題でもあります。わたしたちには、わたしたちの在り方全体を照らし導く希望が必要です。それによって、わたしたちは奇跡をなさるイエスと十字架を担われるイエスをも受け入れられるようになるのです。悪の力が勝ち誇るように見え、わたしたちのあらゆる計画が失敗するように思える時にこそ、もっと徹底して確固とした愛に結ばれた連帯がわたしたちには必要なのです。希望を抱くことは、成功や結果が保証されていることを意味していません。また、様々な試練や誘惑がなくなることでもありません。希望を抱くことは、イエスの復活を思い起こすことです。それは、わたしたちの実存の地平を、そして、わたしたちの歴史を絶えず広げることを意味しています。暗闇があるにもかかわらず、神がわたしたちに先立って行かれ、わたしたちを待っておられることを知っています。
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)。十字架は心臓の鼓動であり、わたしたちの信仰と希望と交わりの力です。この心臓の鼓動に耳を傾けるとき、わたしたちは互いにとっての利益や関心を超えた愛し方を身につけるようになります。この心臓から流れる血から、人は深い苦悩の中でさえも赦すことを学びます。十字架はまさに「命の木」であり、「死は最後の言葉でなく、終わりから2番目の音節にすぎない」のです。ご自分に従って来るようにわたしたちを招かれたとき、前もって戒められた主イエスは、わたしたちに先だってガリラヤに行かれました(マルコ16:7参照)。復活されたお方は憎しみと死に打ち勝たれました。十字架はすべての希望の否定であるように思えますが、実は、もっとも確実な希望の礎なのです。
十字架の下にあってさえ忠実であったヨハネは、主から聖母マリアを委ねられたように、すべての迷っている人々、孤独のうちにある人々、散り散りになった人々をイエスの愛のために再び集めるために、イエスと同じ情熱と献身を持って愛する母として受け入れる勇気をもつよう、わたしたちも又、求められているのです。
四旬節にあって過ぎ越の秘儀がわたしたち一人一人の信仰を浄め、まったき信仰をこころから生きる事が出来ますように。十字架を知ることは離散の躓きではなく、神との、そしてわたしたちの間での交わりの礎であり、わたしたちの存在そのものの核心と認めることなのです。大きな犠牲を払って勝利を得られた平和の主が、和解と交わりのためにわたしたち一人一人を情熱をもった者として下さいますように。
|