ローマ、2004年
親愛なる兄弟と姉妹の皆さん、
主が皆さまに平和をお与えくださいますように。
師父聖フランシスコの帰天の記念日にあたり、大いなる喜びと希望をもってご挨拶申し上げます。三位一体の神が皆さまを豊かな祝福で満たしてくださいますように。
昨年の書簡の中で、私たちの活性化の務めと執行部の奉仕について、「相互受容、相互奉仕の精神で、情報交換を行い、信頼と率直な心で」遂行したいと申し上げました。今年も、それと同じ精神で、2003年の総集会の総括文書に掲げられた優先課題について皆さまと考えたいと思います。優先課題は、私たちがフランシスカン召命の本質に立ち返ることを求めています。この機会に、第一の優先課題である「祈りと献身の精神」について私たちが持った兄弟的な集まりの成果を皆さまにご報告いたします。
以下の考察は、2006年に始まり、2009年まで続くフランシスコ会創立800周年を祝う歩みとの関連において行われるものです。今は、私たちの生活と使命を識別するために主がお与えくださった恵みの時です。また、兄弟共同体の生活プロジェクトと私たち一人ひとりの生活プロジェクトを立て直すための恵みの時であり、創立の恵みを喜び祝うときなのです。こうして、私たちは今日の教会と世界の要請に対して創造的かつふさわしい方法で応えたいのです。しかも、長い歴史を通じて多くの兄弟たちが残してくれた豊かな遺産、つまり幾世紀にもわたる霊的、文化的遺産を念頭に置いた上で応えたいと思っています。
1997年の総集会は、観想的な次元を「兄弟たちの生活と使命の根本的な要素」であると宣言しました(記念から預言へ11)。2003年の総集会も、同じ姿勢をとり、次のように述べています:「私たちの信仰生活は全人格的なものでなければならない。すなわち、心も、精神も、足も、関係も、隣人を見、出会い、抱擁し、愛するときの態度のすべてをも含むものでなければならない」(総括文書27b)。これと同じ考えを「優先課題2003-2009」の中でも強調しました。
聖霊に心を開くこと
私たちのカリスマの最優先課題である「祈りと献身の精神」は神や他者、自然界に対する態度であるばかりでなく、総合的な実践でもあるのです。それは、異なった生活環境の中で、あらゆる次元をひっくるめた、兄弟一人ひとりのあり方、生き方なのです。そこには、祈り、仕事、勉学、兄弟関係、司牧活動、病気などがすべて含まれます。だからこそ、フランシスコにとって最も重要なことは、人生の如何なる瞬間にも「主の霊とその聖なる働きを持つこと」であったわけです。
フランシスコは、その直感においても、自発的な行動においても、聖霊の導きに身を委ねるようにしていました。彼は「聖霊に動かされ」、「聖霊の恵みに満たされた」(1チェラノ11,26; 大伝記2,1; 三人の伴侶10,36)時に初めて、話し、出かけ、行動することができたのでした。彼の生活を導いていたのは神御自身であったと、彼は述懐しています:「主は、私・兄弟フランシスコに、償いの生活を、次のように始めさせてくださいました」(遺言 1)。事実、フランシスコを「祈っていたと言うよりも、自分自身が祈りとなったと言える」(2チェラノ95)ようにしたのは、主の霊とその聖なる働きでした。
兄弟共同体のもとにやって来る人たちにも同じことが言えます。フランシスコは、一人で「聖霊のうちに」生きようとはせず、「神の示しを受けて」(未裁可会則2,1)この生活に入ることを望んだ兄弟たちが同じ信仰体験をすることを願っていました。彼は、聖霊こそ「この修道会の総長である」(2チェラノ145, 193参照)と宣言し、弟子たちに「主の霊とその聖なる働き」(会則10)を、すべてを越えて憧れ望むようにと勧めています。ですから、兄弟たちは、兄弟会の、あるいは教会や社会のどのような奉仕をも「聖なる祈りと献身の霊を消すこと」(会則5;聖アントニオへの手紙)なく成し遂げることができるのです。
フランシスコは、「主の霊とその聖なる働きを持つこと」(諸徳への挨拶 9,10; 訓戒 27,1)がどういうことかを説明するために、聖霊の知恵を体の知恵やこの世のあらゆる知恵と比較しています。彼にとって、肉体は死すべきものであり、人間の弱さであり、神に逆らう感情を示すものでした。だからこそ彼は、「悲惨であわれな、悪臭を放って嫌悪されるべき、忘恩で邪悪な私たち」(未裁可会則23, 8)と表現したのです。これとは逆に、聖霊は神から来るものであり、神へと導くものです。フランシスコはこう言っています:「神のしもべが主の霊を持っているかどうかを、次のようにして知ることができます。主がそのしもべを用いて何かの善をなさった時、彼の肉がそれを誇らず、・・・かえって、彼の目に、自分がますますつまらない者に映り、他のすべての人より小さい者と思うなら、主の霊を持っています」(訓戒12)。
しかし、主の霊を持つためには、「私たちは人間的に見て知恵者や賢い者であってはなりません。むしろ、単純な者、謙遜で純粋な者でなければなりません」(全キリスト者への手紙U,45)。さらに、フランシスコはこのように書いています:「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。地上のものを見くだして、天上のものを求め、地上のいかなるものにも愛着しない心と魂をもって、生けるまことの神である主を常に礼拝し見ている人は、まことに心が清いのです」(訓戒 16)と。
800年に及ぶこれまでのフランシスコ会の歴史において、多くの兄弟姉妹たちはあらゆる文化、時代背景の中で、自分の殻に閉じこもることなく、常に新しい霊的な生き方を求めてゆくように主の霊にどれほど励まされてきたことでしょうか。様々な環境の中で、主の霊に身を委ね、導かれ、清められて、数え切れないほどの祈りの形式や方法を発見することのできた兄弟姉妹は多いのです。彼らは、人間としての、また教会人としてのあらゆる生活の中で、たとえば、宣教活動、文化、芸術、兄弟愛による目立たない奉仕、巡礼所、小教区、福祉活動、司牧活動などにおいて、教会が聖人として公に認めた人たちです。「主の霊とその聖なる働き」を決して諦めなかった人々はとても多く、彼らは、神が「至高であり唯一の神」であるとの信仰告白を忠実に守るために、しばしば血の代償を払わなければなりませんでした。
彼らはみな、豊かで歴史に残る、伝承されるべき、そして特に実践されるべき霊的な遺産を作りあげたのです。
挑戦と責任
会の様々な管区において、私たちが奉献生活の重要性と中心性を認識し、日々の生活で実践するための具体的な選択肢や可能な方法を識別するのに手間取っているのは事実です。そのために、神は私たちの生活のほんの小さな部分を占めることに甘んじておられます。祈りは、祈りの生活と司牧の緊急の要請との間で激しい緊張を強いられながら、機械的に唱える祈りになってしまっています。こうした状況から、また別の危険がしばしば生まれます。たとえば、他者を支配し、管理しようとする願望、物を所有し、それを貯め込もうとする願望、自分勝手な喜びを味わいたいと願う心、他者の尊厳を顧みずに名声や特権を得ようとする心、不誠実な感情的生活を送ったり、不誠実な精神で生きたりすることなどです。
しかしながら、私たちのカリスマの観想的な次元を実行しようとする努力もまたあることを認識しなければなりません。多くの兄弟たちは、ふさわしい場所(小聖堂、隠遁所)を作ること、内省と沈黙の価値を再発見すること、日々の生活によりふさわしい祈りの新しい方法を探すこと、最良の方法で時課の典礼と聖体祭儀を兄弟たち、および人々と共に祝うこと、神の御言葉を祈りの心で読む大切さを再発見すること、これらのことのために腐心しています。
これらの光と影から、私たち一人ひとりのために、特に様々な管区の中で活性化の務めを果たしている人たち(管区長と管区理事たち、院長と修道院顧問、養成担当者など)のために、いくつかの挑戦と責任が生まれます。ですから、理論的にも実践的にも緊急に必要なことは、私たちを次のように導いてくれるダイナミックなプロセスに身を置くことです。すなわち、その中で日々自分の存在と行いを、自分の望みと計画を、神に「お返し」する調和のとれた統一を自分の中に築くために、心と精神の絶望から、キリストのうちにキリストを中心に生きる生き方へと導くプロセス;内的生活、秘蹟的生活、兄弟共同体の生活と福音宣教活動の中に存在する絆を見いだすために、行動主義的な在り方から立ち止まる勇気を持つ在り方へと導くプロセス;神に私たちの礼拝と活動の時間、成功と挫折を捧げるために、効率から神の絶対無償の愛へと導くプロセス;私たちの召命、兄弟的な祈り、そして現存されるお方との出会いであり、日常的雑事と疲労から小さき兄弟であることの喜びへと導くプロセス;福音を告げ知らせるための奉仕の心と機動性を取り戻すために、形式主義的な神との関係からパーソナルで実感のある神との関係へと導くプロセス(2003年総集会への総長報告63, 69-70参照)。これらはすべて、私たちが「祈りの生活と祈りと献身の精神」を私たちの生活を方向付け、活性化させる最優先事項として、キリストに倣う最初の表現として(優先課題 1-11)考える時に初めて可能になるのです。それによって、その他の優先事項は決まります。つまり、すべての価値を含む兄弟的生活、清貧の生活、連帯、小ささ、福音宣教の使命、真剣な刷新された初期養成と生涯養成など。
提案
私たちは、それぞれの個人的、教会的、社会的次元において「神からの無償の召し出しに対する無条件の惜しみない応え」(2003年総集会への総長報告66-68参照)として、洗礼と修道誓願によって神に全面的に、完全に奉献していることを自覚し、「自由への道、主につき従い、他者に仕える道」としての誓願を遵守しながら、日々新たにされる協調関係として、皆さまに三つの提案をしたいと思います。それらはすでに他の資料に含まれているものですが、ここでは、「祈りと献身の精神」をどのように実践しているかを見究めるためのものです。
1. 私たちの生活と宣教使命における神の御言葉の中心性;御言葉は単純さと純粋さをもって読まれ、毎日黙想され、賛美と感謝と祝福の祈り、および主への嘆願と祈願の中で神に帰し、絶えず実践されるべきこと(The Prayerful reading of the Word of God in the Franciscan life参照)。
2. 時のしるしを神の御言葉の光に照らして読み、解釈すること。そうすることによって、すべての民族や文化の個人的、兄弟的、社会的生活の中で、神の現存を発見することが可能になる(総括文書13‐17参照)。
3. ゆるしと聖体の秘跡の生活。これは、至高の善、すべての善にましまし、全能であわれみ深く、聖霊の働きによってイエス・キリストのうちに受肉された神と出会う特権的な方法である。
したがって、観想生活委員会の指示を受け入れながら、小冊子「祈りと献身の精神」(1996年)を2004−2005年のためにもう一度提案することは重要であると考えます。この小冊子は修道院会議や、生活の見直し、毎月の静修日、霊操のために利用することもできます。また、兄弟が個人的に、自身の勉学や祈りのために利用することもできます。同委員会は、これから会の創立800年祭を祝う期間のために他の議題についても深く検討するための役に立つ資料を提供してくれるはずです。たとえば、2006年には、サン・ダミアノのキリスト像について考え、祈る;2007年には、生活の中で傾聴する態度を養う;2008年には、会憲を祈りを込めて読む;そして2009年には、誓願の式文や会則を祈りを込めて読む。
結論
親愛なる兄弟姉妹の皆さま、この第一の根本的な優先事項は、三位一体で唯一の神、御言葉に耳を傾けることによって特別な方法で臨在してくださる神、聖体祭儀の中に、兄弟愛と小ささの生活の中に、教会との交わりと司祭の中に、あらゆる国々の最も貧しく困窮している人々との連帯と正義の関係の中に、そして、あらゆる生活様式を守ろうとの誓約の中に臨在してくださる神との個人的で兄弟的な関係を生きるようにと私たちを再び励ましてくれています。それは、新しくて大胆な応答を見いだすために「時のしるし」を読み、解釈するようにと私たちを促す臨在なのです(総括文書 19-34参照)。それは、あらゆる危機を解決する力と知恵を与えてくれる臨在なのです。あらゆる危機とは、アイデンティティーの危機とか、信仰生活、孤独、兄弟的・司牧的生活、人間存在の限界(加齢、病気、死の意味)から生じ得る真実や親密性の危機のことです。それはまた、真の自由と寛大さと情熱をもって、いのちと連帯と正義と平和の福音を告げ知らせるために神の愛の炎を燃やしつづけてくださる臨在なのです。
聖フランシスコの手本に目を向けましょう。フランシスコのことを思い出したいと思います。彼は聖霊によってラヴェルナで魂も肉体も変容させられ、すべての小さき兄弟にとって「もう一人のヤコブとイスラエルのように、かつては行動の人であったのに、完全な観想の手本」となったのです(聖ボナベントゥラ「魂の神への道程」VII, 3)。神の恩寵と私たちの師父のとりなしによって、私たちはいつでも、どこでも、観想と活動の完全なバランスを保ちながら、「神に向かって昇り、隣人の方へとおりていく」(大伝記XIII, 1)ことができます。
私たちをフランシスカンとなるように召し出してくださった主の霊とその聖なる働きが、私たちに、すべての喜びと知性と大胆さをもって、神に応えるのに必要な力を与えてくださいますように。
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兄弟ホセ・ロドリゲス・カルバッリョofm(総長)
兄弟アマラル・ベルナルド・アマラルofm(総理事)
兄弟アンブロジオ・グエン・ヴァンシofm(総理事)
兄弟フィニアン・マックギンofm(総理事)
兄弟ジャカブ・ヴァルナイofm(総理事)
兄弟ヴァレシロ・マルティン・ミゲル J.
ofm(総理事)
兄弟フランシスコ・ブラヴィofm(総理事)
兄弟シム・サマックofm(総理事)
兄弟カブレラ・ハレラ・ルイス・ゲラルドofm(総理事)
兄弟ホアン・イグナシオ・ムロ・アレチガofm(総理事)
兄弟サンドロ・オヴェレンドofm(総事務局長)
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