5月13日、ベトレヘムへ巡礼しました。片道2時間、5時間の巡礼でした。「犬も歩けば棒に当たる」と言われるように、大発見がありました。ビザンチン時代の聖所、「聖母マリアひと休みの石」遺跡です。数年前、新聞で遺跡発見のニュースは知っていました。これまでも、いくだびか行き来しましたが、車でしたので特定できませんでした。聖墳墓修道院から1時間ぐらい歩いて、まもなくベトレヘムと言う辺りでした。きっかけは「八角」の遺構です。(写真a:ひとやすみ)
チェックポイントではイスラエル兵士が「IDカードかパスポート」と言うので、どちらを見たいかと言ったら、「パスポート」と言うので出しました。「日本人?」、「観光?」と言うから、「居住者」、「6年になる」と言い、「確認したらいい」と重ねて言いました。「何しに行く」と言うから、「見に」と答えたら、「見るためだけ?」と呆れ顔でつぶやきました。帰りも彼でした。通路には3人のパレステイナ男性が壁に顔を向け、手を上げる形で、尋問されていました。顔を合わせて通り抜けようとしたら、「どんな印象だった?」。一瞬、言葉が見つからず、戸惑っていると、「Sweet?]と言われたから、「Sweet」である訳ないと言い返して通り抜けました。辞書をみたら、「Sweet]には「甘い」と言うばかりでなく、「きちんと整頓してある」との意味もありました。不勉強を恥じました。
ラケルの墓を過ぎて、生誕大聖堂へは左の道を取りました。ベトレヘムはきれいに清掃されていました。食料品店、肉屋、雑貨屋には客がいました。銃を持った警察官が目に付きました。イスラエル軍が大聖堂に篭城したパレステイナ警察官をすべて追放しなかったのは、撤退後の治安維持に必要だったのだ気づきました。しかし、今日の警戒は、後で教えられたことですが、アラファト議長がベトレヘムを訪問していたからでした。
生誕バジリカはきれいに清掃されていました。(写真b:バジリカ)「誕生の場所」(写真c:誕生の場所)もイエスが寝かされていた「うまぶね」(写真d:)も以前のまま、きれいに保たれていました。パレステイン人や5月2日侵入してきた「活動家」が占拠しようとしたとの報道があり、どうなっているか心配でした。
ここは「最も神聖なところ」として、教会側が守り、フランシスカンは、仕来り通り、午前中2度、ミサを捧げることが出来ました。しかし、昼前の行列は出来ませんでした。
バジリカ入り口で顔なじみの神学生と出会ったので、火災となった小教区付属多目的ホールへ案内してもらいました。きれいに清掃されていましたが、壁や窓枠には煤の汚れが残っていました。(写真e:焼けた部屋)。最大の損失はパイプオルガン用のパイプだったそうです。昨年、聖堂の改修工事を行い、まだ、パイプの設置が全部済んでおらず、保管していたものです。外に出してあったピアノは調律すれば使えそうでした。しかし、部屋の配置や窓枠は壊れていませんので、イスラエル軍の銃撃あるいは砲撃で火災になったとは思えません。
聖堂や小教区施設、巡礼者用宿舎(カッサノヴァ)は侵入者に占拠されてしまいましたが、修道院には、二日間だけ、彼らが入ってきたようでしたが、その後は入れなかったとのことでした。
カトリック信者が狙撃され、死亡した現場を見ました。修道院から菜園に下りる外付けの出口のところでした。イスラエル軍は5、60メートル離れた出口正面の建物屋上と左手の建物屋上に狙撃兵を配し、警戒していました。血痕が多く残っているところは出口から3,4メートル内側のところです。それに、血痕は建物の内側から外側へ、筆跡のようになっています。私は遺体を引きずったと見ました。パレステイナ人が殺害し、イスラエル軍がしたように細工したのではないかとも疑われています。
聖堂前、聖ヒエロニモ像のところで、パレステイナ人3人がイスラエル軍に殺害されました。そこに、井戸があり、水汲みに来て銃撃されたのだそうです。建物の中庭でどうして銃撃されるのか疑問でした。私が説明を聞いての理解です。上空に気球を揚げ、監視しています。土木建築用のアームを2箇所に配し、不穏な動きがあれば、吊り上げた籠から狙撃するのだそうです。修道院には建物内に別の貯水池があり、ここの水を使う必要はありませんでした。
聖堂入り口上の無原罪の聖母像が被弾したとのニュースがありました。後ろから右肩を撃たれていました。(写真f:身がわり)。身代わりになってくださって「ありがとう」と祈りました。
修道院で出会った兄弟たちやシスターたちは皆元気で、38日間の緊張した生活の疲れも感じさせず、普段の生活にもどっていました。
聖地を守ると言う「フランシスカンの固有の使命」が、今日、このような形で果たすことが出来たことに感謝です。数知れない多くの人々の祈りと犠牲をあわれみ深い神が聞き入れてくださったのだと感じています。これからは多くの巡礼者が訪れ、「人となられた神」の秘儀を祝い、「人々と共におられる神」からの恵みと祝福がゆたかに授かりますように祈ります。
帰り道はバジリカを出て、メインジャースクエアーを渡り、ヘブロン通りに向かいました。昼時でしたので、賑わっていました。市場には新鮮な野菜や果物、肉、雑貨の店が人を呼んでいました。(写真g:市場)。通りで、スクラップとなった乗用車を2台見ました。また、イスラエル軍の家宅捜索で、店のシェルターが壊された跡を2軒見ました。(写真h:壊されたシェルター)。薬屋では空き棚が目立ちました。休日でもないのに働き盛りの若者が街にあふれている現実が今後も続く社会不安を感じさせます。
さて、ベトレヘム小教区聖堂では12日、教皇特使(Card.Roger Etchegaray)司式のもと、エルサレム総大司教、フランシスコ会総長、聖地準管区長、100人を越える司祭たちの共同司式で、「和解と感謝」のミサが捧げられました。同じ日、生誕大聖堂では、ギリシャエルサレム総大主教司式で、祭壇と聖所の清めの祭儀が行われました。ギリシャ、アルメニア正教会では、聖域は犯され、祭壇には残飯や食器が捨て置かれ、聖堂にはマットレスやカーペットが散在し、糞尿のにおいが立ち込めていたとして、祭壇、聖域、聖堂はイスラム教徒に涜聖されたと見ています。カトリック教会からは「涜聖」の言葉は聞こえてきません。「聖域なき構造改革」が行き渡り、カトリック教会には「神のためだけに使われる場所:聖域」を確保しなくなったからでしょうか。
また、朝日新聞(インターネット総合面5月11日)は、ベトレヘム生誕大聖堂篭城事件解決のため、「(パレステイナ人の)一方的な国外追放は公正な裁判を受ける権利を侵害する」非人道的行為と叫ぶパレステイナ人権団体のコメントを載せました。CNNもBBCも繰り返し、繰り返し事件解決のための条件はパレステイナ人が「イスラエルでの裁判」か「国外追放」かを選ぶことと伝えていました。ですから、聴視者や読者は「国外追放」は彼ら自身が選んだことと理解できます。しかし、朝日新聞はこのような報道をしていなかったと思います。しかも、「テロ容疑者が追放されたことに満足する」とのイスラエル国防相のコメントの後に載せているので、朝日の意図は明白です。
この日の海外メデイアは大聖堂を明渡したテロリストを乗せたバス前に、海外からの活動家と思われる数人が飛び出し、イスラエル兵に引き戻される映像やイスラエル人グループにバスが止められる場面をも流していました。イスラエル人が、いまなお、ナチス戦犯を追及していることを思うと、国外追放されたとは言え、イスラエルの監視下に置かれ、折あらば、イスラエルは彼らを国内で裁く機会を狙うのではないでしょうか。
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