身近な友達

9月27日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

写真1前回、「身近な友達」で、アルメニア修道士アルテインさんを紹介しました。その折り、彼が聖ヘレナ聖堂裏を見学させてくれたことを記しました。そこで、今回、一般公開されていない聖堂裏を案内します。

まず、ローマ時代のエルサレムまで戻りましょう。紀元70年、エルサレムはローマ軍に占領され破壊されました。その後、132年、この地にバル・コバ率いるユダヤ人の叛乱が起こりました。ローマ皇帝ハドリアヌスは3年かけてこの叛乱を鎮圧し、徹底した反ユダヤ人政策を実行しました。

「ユダヤ」、「イスラエル」の地名を抹消し、以前のイスラエル人の宿敵、ペリシテ人から名を採り、この地方を「パレステイナ」と命名しました。また、帝都ローマをまねて再建した都市は「エルサレム」ではなく、「ユリア・カピトリア」でした。当然のこととしてユダヤ人は「永遠に」この都から追放されました。

ローマには七つの丘があり、その一つ、カピトルにはジュピターの神殿があり、ここがローマの中心であったように、ローマ人はユリア・カピトリアにも、ジュピターに捧げた神殿を造り、この東側を官庁地区としました。ローマ神殿はキリスト処刑の地、ゴルゴタ(カルヴァリオ)を整地して造られたのです。このため、エルサレムの中心が北西に移りました。写真2

神殿と官庁地区との間には大通り「カルド・マクシモ」が南北に走っていました。現在のダマスコ門からアラブ商店街カン・エズ・ゼイト(Kahn・ez・Zeit)、そして、ユダヤ人地区のカルド遺跡(写真1:カルド)に至る通りです。
「写真2:カルド図」は東カルドの賑わいを絵にしたもので、西の壁(嘆きの壁)の前、「十字架の道行き」第三留、第四留、第五留辺りに通じていました。第三留辺りには巨大な石が埋め込まれてありますが、これらはその時代のものです。

神殿にはジュピターの他、ミネルヴァとヴィーナスが祀られたとされています。入り口はカルド・マクシモの西側、階段を登るようになっていました。その遺跡がロシア正教聖アレキサンダー聖堂内にあります。Intifadaが始まる前までは一般公開されていましたが、写真3最近、暴徒を恐れてか入り口が補強され、公開されていません。

「写真3:入り口地点」この写真の撮影地点は元入り口の数メートル上です。左の建物が聖アレキサンダー聖堂で、正面のドーム手前がカトリコン、その先がアナスタシア(復活ドーム)です。腰を下ろした子供たちの後ろ、緑のドアーを入るとエチオピア修道院で、聖ヘレナ聖堂の上、地上部分です。「写真4:地上の聖ヘレナ」
写真4
十字軍が建てた聖ヘレナ聖堂です。
「写真5:聖ヘレナ」。聖堂へ下る階段、聖堂のアプセス(湾曲した空間)には十字軍兵士が残した無数の十字架が刻まれています。「写真6:十字架」

1960年代、キリスト復活大聖堂を管理するギリシャ、フランシスカン、アルメニアは改修工事に先立って、それぞれが管理するところを学術調査することを申し合わせました。聖ヘ写真5レナ聖堂を所有するアルメニアが聖堂左側の壁、コンスタンテイヌスのマルテイリオン(大聖堂)の地下部分を穿ったところ、そこは石を切り出すときに付けたノミの跡が残る石切場でした。しかも、ローマ時代、神殿のために使われた壁がありました。
「写真7:神殿遺跡」。また、モザイクも残っていました。

そして、神殿土台の遺構に描かれた舟の絵がありました。
「写真9:土台石に舟」。舟の下に「DOMINE IVIMUS」と書かれてあります。「DOMINE IVIMUS(主よ、私たちは行きました)」は過去形です。この言葉に似たものが詩編122に「DOMINE IBIMUS(主よ、写真6私たちは行きます)」あります。これは未来形です。

問題は描かれた舟です。想像で描かれた舟であれば問題ないのですが、この舟は、実際、地中海で使われていたものです。見たり、乗ったりした人が描いたと見るべきです。

335年9月14日、ローマ皇帝コンスタンテイヌス臨席の許、キリスト復活大聖堂は盛大に献堂されました。すでに、この前後から、地中海沿岸地方のキリスト信者が救い主の死
と復活の地に巡礼していたことの証拠と言えます。

 

写真7 神殿遺跡

写真8:神殿跡のモザイク

写真7:神殿遺跡

写真8:神殿跡のモザイク」

写真9:土台石に舟

写真9:土台石に舟