大祭司と指導者たちは「ナザレのイエス」を殺してしまいました。人々が「洗礼者ヨハネ」、「エリア」、「エレミア」、「預言者の一人」等と呼んでいた方でした。(マタイ16.14)。
彼ら指導者たちが恐れたのは、ローマからの解放企てる武闘派がイエスを担ぎ出して、ローマに反乱を起こすことでした。もしも、反乱にでもなれば、ローマは必ず鎮圧し、結果は、反って、以前より悪くなると見たからでした。それで、現状を維持するには、イエスを殺すしかないと決断しました。(ヨハネ11.47-53)。
しかし、人々に「救い主」と期待されていたイエスを殺す機会はありませんでした。思いがけない好機はイエスの愛弟子ユダがつくってくれました。ユダは、イエスが人々から離れ、弟子たちとだけで過ごす、「時」と「場所」を教えたのです。それは、「過越祭」が始まった夜中、ゲッセマネでした。そこにはオーリブの園があり、地下は墓地でした。
逮捕されたイエスは大祭司たちの前に引き出されました。そこは裁判の席でした。すでに、死刑判決が決定していた裁判でした。彼らはやっとイエス死刑判決の罪状を見つけることが出来ました。「自分を神とした」と言う宗教的罪状でした。(マタイ26.57-65)。
死刑執行権がなかったので、ローマ総督ピラトに訴えました。ローマは宗教的事件を取り扱わないので、ピラトには「皇帝に対する反逆」で死刑執行を求めました。ピラトは「ねたみ」による訴訟と気付きましたが(マタイ27.18)、深くかかわって皇帝の信任を失うことを恐れ、イエスに十字架の刑を言い渡しました。(ヨハネ19.12)。イエスの処刑で、「メシア」を失った解放運動は急速にしぼみ、蜂起の機会を失いました。指導者の思惑通りでした。
キリスト処刑の地に勤務するようになって、気付いたのです。イエスを処刑した指導者たちの国を思っての決断(政治的決断)は当を得ていたのではないかと。指導者の「ローマに反逆すれば、ローマは、必ず、国を滅ぼす」との予測は、時を経て、現実のものとなりました。66年、武闘派がエルサレム総督府に乱入し、ローマ兵を殺害すると、ローマはチェザレアのユダヤ人を殺害し、報復合戦が続き、70年、エルサレムが占拠破壊され、マサダが陥落してユダが滅びました。
イエスを処刑した指導者たちは、反乱を抑えたことで、ユダを、約40年、存続させたのです。私が、エルサレムに着任してまもなく、山一證券が破産しました。破産の経緯が明らかにされました。期末の負債処理が問題の発端でした。当時の山一では経常損益で処理する十分の体力ありました。しかし、役員会では風評害を恐れ、帳簿外処理を決めました。しかし、年とともに、その負債が膨らみ、どうにもならなくなってしまいました。山一破産のニュースは世界に広がりました。エルサレムアラブ商店街でも、話題となりました。それで今でも、私には「YAMAICHI」と声をかけます。
今はまた、栄光の三菱自動車が、欠陥隠しが「あだ」となり、存続の危機に晒されています。1980年、アテネの街角でタクシーを拾いました。何気なく、メーターを見たら、「料金」と書いてありました。車種は「ランサー」でした。これまでのアメリカ車より「ベリ グウード」と自慢していました。エルサレムでも「三菱」をよく見かけるのですが。他にも、企業責任者の「判断」が企業の命取りになったのもがあります。雪印乳業の「腐敗牛乳」、京都の「鶏インフルエンザ」、ラベル偽装事件など。どれも、「会社のため」でした。
最近、当地の分離壁構築問題は日本でも取上げられています。イスラエル最高裁がエルサレム近辺での分離壁構築ルートの変更を裁決しました。ヌアマン(Nuaman)がその一区画です。エルサレムの南、ハル・ホマル(Har・Homar)入植地に隣接し、ベトレヘムに近い小さな村落です。ベトレヘムがパレステイナに組み入れられた時、イスラエル占領下に取り残されました。その際、村民はイスラエルIDの付与を願いましたが、拒否されました。今回の分離壁計画では村落が分断されます。村民はルート変更を請願しました。それが認められたのです。
分離壁構築は遂行されます。検討されるのはルートについてのみです。イスラエルは、村民の不便さを緩和するために壁に通路を設けること、さらに、イスラエル市民権を付与してもいいと懐柔しているようです。現段階では、村民はエルサレムではなく、ベトレヘムとのつながりが強いです。自治区への編入を望んでいます。しかし将来、イスラエル市民権を得、エルサレムとの関係が深まれば、村民の生活は確実に向上します。ベトレヘムに取り残されたアラブキリスト信者の窮状が反面教師です。村民たちの将来は長老の決断にかかっています。
政治問題、広くはどの社会問題も利害の対立でからみあっています。「・・・基準」に従って、決め、行動を起こすのが指導者です。その際、「これしかない」、「絶対正しい」と確信したとしても、「別の立場」からは「別の結論」になるかもしれないと「自己を疑うゆとり」が持てる、指導者であって欲しいです。行動せず、責任を逃れ、しかも、悪い結果を他に転嫁するものは最低です。
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