追悼 平和の人、ヨハネ・パウロ二世 |
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4月9日 |
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アンジェロ 春山 勝美 神父 |
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4月2日、午後10時前、聖墳墓修道院の弔鐘が鳴りました。日本の、世界の報道機関にアクセスしました。速報はまだでした。テレビを見ることにしました。すでに、BBCWORLDではローマからの実況で、教皇の訃報を伝えていました。翌朝5時、NHK昼のニュースが教皇の死を伝えていました。驚いたことに、私たちの聖堂でポーランドからの巡礼者が祈っているではありませんか。ネッカチーフで分かりました。 3日のハアレツ(haaretz)はダビド・ロセン(David Rosen)の記事を掲載した。教皇が1986年にローマの大シナゴクを、2000年にはイスラエルを訪問したことを取上げました。特に、ホロコスト記念館(Yad Vashem)訪問の箇所では、ナ チス迫害下の苦難のユダヤ人を理解し、解放後はキリスト信者の養子となった子供たちをユダヤ人家族に戻す活動に、カトリック司祭として、従事していたと紹介しています。また、西の壁のところでは、キリスト信者のユダヤ人に対する罪のあがないの祈りを捧げたことがイスラエル人には、決して、忘れることが出来ないと書いています。そして、ヨハネ・パウロ二世を「キリスト者とユダヤ人を和解させた真の英雄」と称えました。 同じ日のエルサレムポスト(Jerusalem Post)はヘルブ・ケイノン(Herb Keinon)の記事で、「イスラエルは教皇の死を深く悲しむ」とし、教皇を、1986年、ローマの大シナゴク訪問の際、「ユダヤの民は私たちの兄」を呼んだことを思い起こし、シャロム外務大臣の「イスラエル、ユダヤ人、そして、全世界は、信仰に元づく兄弟性と和解の偉大な推進者を、今日、失った」との声明を引用しました。 そして今日、同僚のポーランド人が話してくれました。教皇が、青年であった時、脱出を助けたユダヤ人の少女は、その後、アメリカで成長し、2000年、エルサレムのホロコスト記念館で感謝の再会を果たしたと。 大聖年、2000年3月26日、教皇は個人としても、悲願の巡礼を果たしました。キリスト復活大聖堂で、キリストの死と復活の記念であるミサを主の復活の場で執り行いました。クストスのエスコートで大聖堂に入り、まず、お墓を参拝しました。(写真1:お墓に入る)。祭壇はお墓前に特別に設えられました。共同司式を望む司祭は大勢でした。しかし、枢機卿、司教24名と限定されました。信仰宣言の後、復活徹夜祭のときする「洗礼の約束更新」が特別に挿入されました。(写真2:洗礼約束更新)。そして、特別祭壇でミサ司式。(写真3:教皇ミサ)。 その日の午後、公式日程が済み、帰国数時間前、教皇が再び、お出でになるとのニュースが飛び込んできました。午前中の入堂の際、カルヴァリオへは上れませんでした。教皇はカルヴァリオで祈りたいと強く望まれたのです。出迎えたのは聖墳墓修道院のフランシスカンです。公式訪問のときとは打って変わって、静かな祈りの時をもたれました。(写真4:教皇退堂)。 4月6日、エルサレム総大司教区のヨハネ・パウロ二世追悼ミサが、かつて教皇が司式したお墓前で、ミカエル総大司教司式で執り行われました。(写真5&6:奉挙、epiclesis) 私たちの聖堂には、2000年巡礼の際のポスターを遺影として飾り、冥福を祈っています。(写真7&8:遺影、聖堂) |
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