ロドス便り |
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6月29日 |
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アンジェロ 春山 勝美 神父 |
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![]() 日没後、港のベンチに腰を下ろし、身分不相応の境遇に感謝していました。イスラエルからの旅費だけで、世界的観光地で休日を楽しめるのですから。(写真02:城砦 ![]() 最近は、日本でもロドスを含むエーゲ海クルーズが有名だそうです。そう言えば、ロドスから高速船で45分の所にシミ島(Simi)のパノルミテイス港(Panormitis)に聖ミカエル聖堂があります。天群の総帥聖ミカエルは悪魔と戦う戦士として剣を帯びています。人々は聖ミカエルの保護を仰ぎ、剣を奉納します。なんと、その中に、日本刀がありました。その向かいには、千成ひょうたんもありました。(写真03&04:奉納日本刀、シミ入り江)。 ![]() 座っていたベンチの後は広場です。そこにニーケ(勝利の女神)のブロンズ像があり、碑文には1943年から1945年にかけてのロドス解放闘争勝利を記念するとあります。現在はギリシャ共和国のロドスですが、古代から現代までの歴史は複雑です。中世からは、アジアとヨーロッパ貿易の中継地としての利便性が諸外国の侵略を招き、ヴェニスの支配、トルコの支配を受けることとなりました。さらに、1911年、統一したイタリアに占領され、住民はイタリア語を強要されました。 ![]() 島民のイタリアに対する感情を聞くと、それは韓国の日本に対する感情に似ていると感じました。1943年から1945年まではドイツに占領され、この間、1604人のユダヤ人が強制収容所に送られ、受難したと街角に立つモヌメントは語りかけています。 イタリアはロドスをオットマントルコから解放しました。そして、新市街を建設し、イスラム色をそぎ落とし、カトリック化を強力に推し進めました。1928年にはロドス大司教区が復活しました。世界遺産となった旧市街を今ある姿に整えたのはイタリアです。 フランシスコ会のロドスとのかかわりは聖フランシスコが聖地を訪ねた時にまで遡ります。聖人は十字軍の航路、すなわち、イタリアのアンコナからクレタ、ロドス、チプロス、シリアと渡ったと考えられています。その後、聖地がシリア管区に任されたので、ロドスはシリア管区に属しました。現在は聖地特別分管区(Custodia)の管轄となっています。 ![]() 旧市街に聖フランシスコ教会、新市街に勝利の聖マリア教会、それに、コス島に巡回教会を持っています。新任の院長は英国人なので住民の対イタリア感情から解放されているので、ギリシャ聖職者との関係も良いと言っていました。 軍港広場にイタリア風聖堂を見つけました。(写真05&06:元カテドラル;ギリシャ聖堂内部)。案内表示はギリシャ語だけです。気になったので、院長に聞いてみました。以前の「ロドス大司教区カテドラル」だったとのことでした。解放後、接収され、ギリシャ聖 ![]() ロドスは商業港と軍港に分かれていました。その境目に、愛の女神(Aphrodite)の神殿があったことが分かりました。(写真07&08:ヴィーナス神殿跡;ご神体)。 旧市街の「騎士団長の宮殿(Palace of the Grand Masters)」や考古学博物館が中庭式建物なので、コリドール(回廊)修道院様式と気付きました。内部には大小のチャペルがあり、大聖堂内陣や修道院聖堂のベンチが展示され、回廊から入る展示室は修室とみることができました。 ![]() 私と時を同じくして、アテネ大司教様がロドスに滞在していました。ミサに誘われましたが、ギリシャ語が分からないからと言うと、奉献文をラテン語にし、共同司式の機会を作ってくださいました。ギリシャには400万のカトリックがいるとのことでした。 食事の折、ギリシャ・エルサレム総大主教(Patriarcha)の問題が話題となりました。エルサレムヤッフォ門の二つのホテルをイスラエル極右系に売却したことが公になり、 ![]() ロドス便り補足: ギリシャエルサレム総大主教問題を取り扱ったHAARETSの記事 "For whom bells toll": http://www.haaretz.com/hasen/spages/591628.html |
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