小さき兄弟会総集会 |
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総長報告(第二部) |
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総長報告 第二部 |
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本会の展望[ヴィジョン] はじめに 27 このプレゼンテーション第二部では、様々に異なった各管区の現状を踏まえて下記のことを目標にしながら会の全体像を描こうと試みました。 *
私たちの家族を愛してもらうこと:多くの豊かさと刷新の可能性を持っていることを示すことです。たとえ各管区でそれらがしばしば適切に表現されず、評価されていないとしてもです。 *
未来に向かって進むこと:生き生きとした希望を持ち、自分たちの現在の生活様式や考え方、行動様式をすぐにでも改めることによって進むことです。未来は、私たちが自分たちの可能性を信じて、今目の前にある刷新の基盤を整えてこそ初めて意味を持つのです。 28 本会の展望[ヴィジョン]は(これについては総理事会で再三話し合ってきました)、限界があり現実とギャップがあるように一部の人には見えるかもしれません。総長報告書というものは多少なりともそれぞれの管区の状況を正確に反映しているべきであると考える人には特にそう見えるでしょう。しかし、この報告書はそのようなものではありません。私は本会全体のグローバルな展望[ヴィジョン]を描こうと努めました。この大家族の可能性を受け入れて、その中に秘められている豊かさを発掘し、また生活を見直すために、新しい地平へと招くことをこの報告書で目指しています。 29 方法についてですが、この報告は総理事会が兄弟たちの使命を鼓舞する任務を受けた当初、私たちで作った「フランシスコ会の優先課題、1997年〜2003年 −総理事会から出された公文書−」の枠組みに従っています。この「優先課題」を6年間すべての管区でも分かち合う方法論として用いるようにお願いしました。皆さんは責任をもってそれを果たしてくださいました。 I.祈りの精神(nn.54-70) 30 神を信じること:信仰とは、単なる既成事実でも、いと高き所から一回限りでいただくお恵みではないと思います。信仰とは、絶えず探し求めるダイナミックなものであり、他のいろいろなものに頼る生き方から脱却して主イエスに今まで以上に深く愛と忠実を捧げる生き方への道程なのです。また、信仰は様々な形の自己中心や所有欲、出世欲、支配欲を乗り越えることを要求する旅路なのです。・・・このようにして私たちの存在と行動は変えられ、私たち自身が絶対者であられる神を預言し、証しする者となるのです。この緊張感を受け入れて生きることによってのみ、つまり本来のものを中心とすることによって、私たちは自分の生活を「立て直し」、自由で喜びに満ちたフランシスカン的な単純さに立ち戻ることができるのです。 31 私たちが生きているこの歴史的瞬間は、世界的な視野で自分の存在を見直すようにと私たちを促しています。もはや、端っこをちょっと修正したり、一時的に補修したりして済む時代ではないのです。私たちの関係、自分の存在と行動、召命と使命、これらを再構築する必要があります。 私たちの愛はもっと深い信仰ともっと大きな希望を必要とする 32 私たちの使徒的活動や社会活動のすべては、信仰のうちにその存在理由を見いださねばなりません。その信仰とは祈りの精神によって養われ、生き生きとした具体的なものとなり、フランシスカン的なあらゆる体験を神に帰することのできるものです。「私たちは寄留者であり巡礼者である」こと、絶対者であられる神の探求者であることをフランシスコとクララは絶えず思い起こさせてくれます。この緊張感をもって未来を目指すことが、神に生涯を捧げた人間に求められていることです。なぜなら、もし、その再臨が待ち望まれている神の姿がこの世の出来事の中から見えなくなった場合、信仰から魂が消え、宣教から預言的な力が抜けてしまうからです。この視点に立ってこそ、私たちは教会と世界における預言的な役割を取り戻すことができるのではないでしょうか。 33 私たちを取り巻く世俗化の流れは、時代と歴史の主である神とのパーソナルな関係を促進してはくれません。それどころか、時代と歴史の主である神は私たちの生活の複雑な出来事から姿を隠しておられるように見えます。召命による選択は、この優先的な関係を自動的に保証してくれるわけではなく、また、個人的・社会的な存在の「神学的」な解釈を容易にしてくれるわけでもありません。 34 また、教会内においても、証しする「場所」、すなわち、「逆説的に」福音的であるがゆえに常に「預言的」である私たちの役割を識別し、定義し直す必要があります。もしも私たちが「主から教会に与えられた贈り物」であるとすれば、教会のただ中にあって、死の文化の中にひそむ命の芽生えを見逃さない方法を知っている直感的で霊的な力に頼ることが大切です。一貫性と大胆さと独創性をもって、世俗を超えた価値を渇望する世界において、新しくて意味のある宣教的な対話の形を見つけなくてはなりません。 35 現代における私たちの在り方を会全体で建てなおすためには、立ち止まる勇気が必要です。立ち止まって、神のみ言葉に耳を傾け、兄弟愛をもって互いの話を聞き、世界の動きに注意を払う必要があります。それは、フランシスカン召命に対する希望と情熱の理由を再び見いだすためなのです。これほど差し迫った司牧的責任は他にありません。この探求は私たちの生き方の特徴をなすものですが、決して効率よくやろうなどと思ってはなりません。地道にやってこそ、私たちの言葉は信頼性を持ち、私たち自身が生きた言葉となれるのです。 36 この6年間各地を視察し、会議と体験の分かち合いを重ねてきましたが、多くの兄弟たちが刷新への強い意欲を持っていることがわかりました。多くの管区長たちはそれぞれの管区の兄弟たちに自分の召命についてよく見直しをし、新しい方向付けをするように促しました。祈り込めたみことばの朗読(Lectio divina)は個人の祈りと信仰の分かち合いの手段として徐々に兄弟会の中に浸透して来ています。管区長たちは、会則の定めに従い、自分に委ねられた兄弟たちの霊的な生活を鼓舞する任務を負っています。管区によっては、祈りの場所が兄弟会の毎日の生活を評価する基準点(reference
point)となっているところもあります。報告書によると、真実と召命の忠実さに重大な影響を及ぼしかねないある種のためらいや困難も、当然のことながら見られるということです。 37 最大の課題は、個人の生活と共同体の生活を調和させることでしょう。私たちが神のうちに一つに結ばれるためには、どちらの生活も祈りの精神に集中させることが大切です。 U.
兄弟会における共同生活:新しい姿を求めて(nn.71-88) 「兄弟は、一人ひとりが、神から兄弟会に授かった賜物である・・・兄弟会全体が神との出会いの優れた場となる」(会憲40)。 38 「兄弟的な交わりの生活は兄弟たちに、 *
一致して会則と会憲を守ること、 *
同じような生活レベル、 *
兄弟的生活の諸活動、 *
とりわけ共同の祈り(兄弟会を神との出会いの神学的な場として)、 *
福音宣教と家事に参加することを要求しています。 *
また同様に、どのような名目で得たものであれ、すべての収入を共同体の使用にために提供することを要求しています(会憲42,2)。 39 これは会憲から引用した文章で今更コメントの必要はありませんが、初めて誓願を立てた日から生涯を閉じる日までの毎日の生活を見直すチェックリストとして役立てたいと思います。兄弟的な側面は私たちのカリスマの最も重要な一部をなしており、したがって、生活様式、在り方、奉仕の仕方、福音宣教、時間管理などの基礎となるべきものです。兄弟的な関係を見れば、その他の関係の質がよくわかります。たとえば、神との関係や自分自身との関係、社会との関係など。大切なことは、ゆっくりと、しかし着実に自分の生き方を変えてゆくよう絶えず努力することです。「(兄弟たちは)共同体を、キリストにおいて結ばれた家族のように築き上げるよう努める」のです(会憲45,1)。 40 最近数年の間に多くの兄弟共同体が刷新をとげたのは確かです。管区および各地の兄弟共同体を築き上げるために対話を促進し、積極的な共同責任の雰囲気を作り出すような相互信頼と尊敬の精神が育ちつつあります。修道院長や養成担当者などが他の兄弟たちと根気強く家族的な関係を築いてくれたおかげで、兄弟的な一致を「壊してしまう人」はどんどん減っています。この交わりの生活は、対話と神のみ言葉の分かち合い、共に作成した共同生活計画、そして、最近ますます生活の見直しの場となっている修道院会議に基づいて築かれています。兄弟的な側面が私たちのアイデンティティーの必要不可欠な要素であることを管区長たちが確信して、理事会や修道院長、養成担当者たちと力を合わせてこの新しい精神を推し進めてゆくように努めるならば、すべてはより円滑に実現され、会の姿も少しずつ変化してゆくでしょう。 相関的回心(relational
conversion) 41 兄弟的生活の質を最終的に高め得る仕事、つまり、将来どうしてもやらなければならないことがあるとすれば、それは相関的回心です。それは、私たちの関心と努力の中心を、各管区の組織を何とか活性化させようと試みる治療的強化とか管理運営上の問題よりも、各兄弟の霊的−相関的生き方に置くことです。個人が兄弟会の緊急の要請を積極的に無条件に受け入れる姿勢を育むことが今まで以上に必要になるでしょう。このようにして、兄弟会の急を要する問題がすべての計画や使命の中心となるのです。聖フランシスコは「自分のことを取るに足りない者だと思い始めた」(3人の伴侶の伝記8)時、神と他者に心を開くために新しい旅を始めました。私たちにとっても、「自己中心」を乗り越えることのできる新しい時代がやってきたのです。自己中心は真心と礼節をもって兄弟に心を開くことを妨げるものです。 42 この相関的回心は、管区においても通用する有効な手段です。一つの管区の持つあらゆる可能性は、それが世界中の兄弟共同体や世界に向けられた時に最大の効果を表わします。私たちは聖霊降臨の時に、すべての怖れを乗り越えて、それぞれの地域を「超えて」世界に散らばるように促されました。「遠心力」運動が始まったのです。福音のメッセージは世界に向けて発信されるために、最初の限定された場所(エルサレムとパレスチナ)を飛び越えました。会や管区の初期の姿は、世界に開かれた旅する者であったことを私たちは知っています。今日では、危機に直面して、殻に閉じこもろうとしているように見えます。私たちの管区では、(組織的にも人員的にも)大変恵まれていながら(恵まれすぎて)、時のしるしに注意を向けていないためにそれが活かされておらず、自分の殻に閉じこもって「窒息」しているように思われます。協力と相互交流へと自分を開放することによってのみ、世界に広がる兄弟会の歩みは活気を取り戻し、各管区は単なる生き残り論理に「妨げられる」ことがなくなるのです。兄弟たちも召命の刷新に取り組むのに必要な自信を再び取り戻すでしょう。 43 本会は、「夢を見る」ことのできる情熱的な兄弟たちのおかげで、これまでも絶えず刷新されてきました。別々の管区に所属しながら、彼らは協力し合って新しい福音的な組織に命を吹き込んでくれました。たとえば、「オブセルバンテス」運動の歴史を考えてみたらわかると思います。本物の兄弟会を築き上げるためには、世界の期待や教会とフランシスカン家族の期待に対して、もっと責任を感じ、「連帯する」必要があります。このような「グローバルな」問題に対して関心が薄いために、私が以下に指摘するゆゆしい問題が生じたのです。すなわち、 *
会の分裂、 *
すべてのフランシスカン的価値の破壊につながる、自分と自分の安楽を求める個人主義、 *
一部の管区で起こっている差別的な聖職者主義(clericalism)による傷、 *
会則と会憲の精神とかけ離れた兄弟間の不平等、 *
関係を損なう偏見と信頼の欠如。 44 「人々が期待している者と違った者にならないように注意しなさい」(2チェラノ142)。これは世界中の人々が信頼を込めて私たちに繰り返し言っていることです。自分のエネルギーをあまりにも個人的な、自分の地域だけのプロジェクトのために浪費して、人々の期待を裏切ってはなりません。 V.小さき者、清貧、連帯の 「神の御子は私たちの道となられた」(TestC
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