小さき兄弟会総集会 |
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導入 修道会の初めに、祝福されたフランシスコが最初の12人の兄弟のうちの一人と出かけることがあったが、その兄弟は途上で出会う人々に「主があなたに平和を与えてくださいますように」と言うのが常であった(LegP101F;MP26)。 1 わたしたち小さき兄弟は、110の異なる国々からポルチウンクラに集まりました。ちょうど第3の千年期の初めにあたっており、またフランシスカン・ファミリーは聖クララ帰天750周年を祝っています。この好機にあたり、わたしたちは主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるというわたしたちの召命の深い意味を再確認し、再発見したいと切望しています。人類がバラバラになり苦しんでいる状況にあって、わたしたちはフランシスコ自身に啓示された挨拶を特に思い起こします。「主があなたに平和を与えてくださいますように」(cf.Test23)。パウロの時代と同じく、現代も人類は異常な力によって苦しめられていて、「産みの苦しみ」を味わっています。そして、神の子の栄光ある自由に与るために、腐敗の隷属から解き放たれる時を待っているのです(cf.Rm8・18−25)。わたしたちは、わたしたちの心に住んでおられ、「世界の隅々と人の心の奥に隠れておられる」(3LtCl7)御言葉をわたしたちの生活と働きの中に組み入れたいのです。「心の底から、魂を込め、精神を尽くして」(cf.Rnb23・8;Mt22・37)、神の「はい」を全被造物に響き渡らせたいのです。さらに、全被造物への神のまなざしとそれらすべてを「善し」とされたこと(cf.Gen1・31)、また、主の誕生、生活、働き、そして、特に主の死と復活において、すべての人と共に神がおられること(cf.TestCl 13)、それから神の最終的「はい」が平和と正義のうちに生きている全被造物に与えられることを、声を高くして知らせたいのです。わたしたちは、この希望のメッセージを、わたしたちの個人的、また兄弟的生活の中で体現したいのです。このようにして、わたしたちは敵をも含めたすべての人々を平和と善に向けて導くことができるのです。 2
わたしたちは心地よい生活スタイルに適応させようとして、福音の預言的言葉を薄めて解釈することのないようにしなければなりません。反対に、わたしたちは「霊」を受け、個人的レベルでも、共同体的レベルでも、「再び生まれる」(ヨハネ3・3)ことの福音的緊急性を内面から感じ取っていきたいと思います。善意のすべての人々(ルカ2・14;GGSS22)と一緒になって、わたしたちは新しい時代を拓き、平和への道である正義と愛に基づく生き方と関わり方への新しい展望を呼び起したいのです。このような中で、わたしたちの信仰体験とフランシスカン霊性の本質に立ち帰る緊急性があることを、わたしたちは認識しています。それは、フランシスコとクララがその当時したように、解放の福音を示すことによって人生の意味を求めているバラバラになった不公平な世界を内側から力づけ育むためなのです。 3 わたしたちは先人たちの働きを賞賛するだけで満足することは出来ません。むしろ、彼らから鼓舞され、励まされて、現代という歴史的時間の中でわたしたちにふさわしい部分を展開していかねばなりません(Cf.Adm6;2Cel214)。2003年の総集会の目標はこの意図を評価することであり、創造的忠実さの新しい歩みをもくろんでいくことです。この総集会のためにメッセージを下さった教皇ヨハネ・パウロ2世の招きに従いたいと思います。すなわち、「アシジのフランシスコとクララの魅力は若者たちにとって大きいものがあります。ですから第3千年期の世代の人々を“人生の本質的な価値についてのより注意深い考察”へと招くために伝えられるべきです。こうして、各人は、神の呼びかけに対する応答の中に人生の意味の十全性を見出します。それは特にこの場合、御国のために自分のすべて、自分のエネルギーのすべてを捧げていくように、という呼びかけへの応答なのです(NMI
46)」(p10「総集会へのメッセージ」参照)。 4 総集会では、総長レポート“Vocavit nos Deus ut eamus per mundum”(神は、わたしたちが世に出て行くようにと、呼ばれた)を検討しました。そしてこの6年の間に、本会の進歩した部分を評価しました。「本会の5つの優先課題」の中に表明されているように、兄弟たちによって引き受けられた方向に更に進んでいくようにとのわたしたちの望みを表しました。それは、1)祈りと献身の精神、2)兄弟としての生活の交わり、3)小ささと清貧と連帯性、4)福音化と宣教、5)養成。わたしたちはこれらを「わたしたちのアイデンティティーをどのように生き、世界の期待をどのように理解するかを読み取る鍵」であり続けると考えています。兄弟たちがこの総長レポートの内容を黙想し、注意深く研究するように奨励いたします。刷新と変化への助けとなり、招きとなるからです。これと同様に、すでに出版されている「対話への奉仕」の冊子(未翻訳)や本会の総評議会において提示された修道生活の諸原理と展望(2001年総評議会、グアダラハラ)を薦めることは有益であると思っています。それらは真正な探求へのあゆみを集大成したものです。 5 この総括文書は同じ軌道線上に置かれています。そして、同じ挑戦を取り上げています。わたしたちの意図は、姉妹であるクララの祝祭年に、諸天使の聖母マリアの保護のもとに全世界からフランシスコのホームランドに参集した兄弟たちの対話の焦点となった意義深い話題に光を当てることです。平和と救いへの歩みとしての至高なる愛の掟に最大の強調点を注ぎながら(マルコ12・29−32参照)、わたしたちはこの文書を本会の全兄弟たちとフランシスカン・ファミリーの全兄弟姉妹たちに、そして今なお生き生きと影響を与えている、わたしたちのカリスマの深さに魅了されていると感じている人々に捧げます。 天と地の新しいしるしで互いに挨拶する この新しいしるしは、神の目には偉大で、もっとも卓越したものであるのに、大ぜいの修道者やその他の人々からは全く取るに足りないものと見なされています。(1LtCus1)。 6 キリスト者の歩みの本質的な要素は、時のしるしを調べ、それを福音の光に照らして解釈する生涯にわたる能力です(GS4;GGCC102;∰2;SRS7;VC81)。しるしとは、歴史の画期的出来事を測る人生の様々な出来事です。キリスト者はそれを通して、神から問われていると感じ、福音的応答をするように呼ばれています。このようにして、時のしるしはわたしたちの生活と人々の暗闇の中にある光に気がつかせてくれます。それは希望を生み出してくれる灯火です。時のしるしを読み取らない者は誰でも、発展性のない繰り返しの生活をして夢を無駄にし、少しずつ信仰から来る喜びを失っていく危険性があります。キリスト者にとって、時のしるしを見分けるために要求されることは次のとおりです。「このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(ルカ12・56)。主は、わたしたちが歴史の出来事の中に主の御声を聞くように招かれ、常に生きておられる主の現存を見つけるように招かれています。それは、わたしたちが言葉と行動によって、見たこと、聞いたことを告げるためなのです(cf.1Jn1.1;cf.GGCC89.93 ∰2)。したがって、しるしは、個人的レベルでも、兄弟体のうちにおいても、認識と読み取りと解釈と判断を要求するのです(cf.OA3;RFF32)。 7 このように、わたしたちは、いつでも、どこにいても福音的識別への歩みを引き受けるように呼ばれています。「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」(1テサ5・21)。この識別は二重の側面からなされなければなりません。第一の側面として、わたしたちはいのちに反する個人的、社会的スケマ(図式)に注意するようにしなければなりません。それによって、いのちに反することを告発し、打倒するためなのです。もう一方の側面として、わたしたちは危機の真っ只中にあって、人間性のうちから沸き起こってくる夢を見つけ、わたしたちの生活のなかにそれが入ってくるようにしなければなりません。そうすることによって、わたしたちは、イエス・キリストが生き、宣言された神の国を先取りするのです。わたしたちは、「聖霊によるものと、それによらないものとの区別」(VC73c)することを知らねばなりません。アシジの聖フランシスコは、伝記作家が言っているように、「他の世界の人」(1Cel36)のようであり、すべての人に可能な生活の生きた模範のようでありました。もし、わたしたちが福音の光に照らして時のしるしを読み取ることができたら、私たち自身が、「新しい天と地」(イザ65・17;黙示21・1)に渇いている世界に対して読み取り可能な生活のしるしとなることができるでしょう。 8 ヨハネ・パウロ2世は、現代の男女修道者たちに「創立者たちのイニシアティブと創造性と聖性を、現代の世界に浮き彫りにされている時のしるしに答えて、勇気をもって刷新していくように」(VC37a)と招かれました。教皇は、わたしたちが時のしるしを読むだけではなく、「現在の状況に合った新しい福音化のイニシアティブ取るように」(VC73d)と願っておられます。 9 わたしたち小さき兄弟は、歴史の中に存在する否定的現実によって自分たちが問い質されているのを特に感じています。それらに共通して言えることは、異質なものを排斥するということです。それは、他者の排斥であり、他者性の組織的否定であります。しかし同時に、よく注意して見れば、いのちのしるしや希望のしるしをも発見するのです。それは、仲間になること、近い者となること、交わり、包容性、兄弟性と真の平和への歩みへの途絶えることのない創造的な探求なのです。 市場エコノミーと連帯性のエコノミーのはざまで 10 わたしたちのグローバル化された世界の明らかな現実は、権力と豊かさが少数の人々の手中に集中しているということです。人類が共有すべきものがある特定の人々だけのものになっています。倫理の枠外で操られている市場経済は、やはりこれらのわずかな人々、権力ある人々だけがその恩恵に浴するという排他的論理で機能しています。地球に住む大多数の人々は豊かさの最小限の部分しかなく、同時に、不合理な消費主義の餌食となっています。富める者と貧しい者とのギャップはかつてなかったように大きくなっており、スキャンダルとなっています。負債を抱える多くの国々は、負債自体が生き残るための手段となっていて、さらに深刻な問題となっています。それらの国々は貧しい上に、負債をも抱えているのです。統計によれば、3分の2の人々が貧困という中で、グローバル化された経済システムの犠牲となっています。市場は即座にそして根無し草のように動く文化とつながっています。 11 倫理的基準なしに、やっていこうとするシステムに対して、人間の尊厳と正義に基づく倫理的世界を探求していこうとする深い考察が出てきています(cf.GGSS63−72)。あらゆる面で人間性に叶った別な可能性を探しています。それらの有用性は様々ですが、人間性に反するシステムに対抗するという点で共通しています。市場の経済に対して、市場と共にある経済を提唱しています。文化のグロ―バル化に対して、人々の文化の豊かな相違性を緊急に再構築しようとする動きが出ています。グロ―バルマーケット、そしてテクノロジーとの結合、ここから、すべての人、特にもっとも貧しい人々に人間らしい生活を目指しての善益と資源の相互依存関係を支え、ネットワークコミュニケーションを創る可能性が探求されています。平和を求めるというグローバルな意識は、堅固な正義なしには到達できないでしょう。このような背景の中で、多くの人々は自分たちを、貧しい人々の夢を自分の夢にしようとして生活してきました。それこそがいのちの理想への愛と一貫性の至高のしるしです(cf.LG42)。 暴力というパワーと平和の実践との狭間で 12 20世紀は、疑いなく人類の歴史の中でもっとも暴力に満ちた世紀のひとつでした。そのしるしは明白であって、今も異常なパワーをもって続けられています。情け容赦ない自然破壊、陰険な形での排斥行為、部族主義、民族戦争、異なる宗教間の対立集団虐殺、女性への抑圧、未成年者への性的虐待、軍拡競争の背後に隠された血の跡、その他にも平和を常に傷つけている暴力の形が沢山あります。 13 しかしながら、現代には、暴力と機構のダイナミクスに、個人としても組織としても対峙していこうと意識している人々が少なからず存在しています。多くの人々は、交わりを妨げる不正義に対抗しています。ネットワークを使って、非暴力と被造物への尊敬の文化を創ろうと創造的に働いています。こうして、相互理解と闘争の解決のために行われる彼らの毎日の小さな行為、および真理の種を蒔く人々の存在は、わたしたちが待っている夜明けの光となって新しい時代の時の意義深いしるしなのです。 原理主義から対話への道 14 増え続ける原理主義は、わたしたちの時代を特徴付けるもうひとつの姿です。一般的に言って、この主義はアイデンティティーに対して純粋で確かな保証であることに対して熱心です。しかも、自分たちと異なる他者を組織的に否定してまで、そうなのです。人類共通の絆を破ってまで自分たちの正当性を主張しようとします。自分たちの決定したイデオロギーに属する方が、共通のニーズと望みを持っている人類に属するよりも重要だと考えるのです。このイデオロギーの擁護者たちは、自分たちのほうが優越しているという確信の上に乗っかっているのです。自分たちこそ真理を有しており、他の人々の真理は間違っていると頭から思い込んでいます。したがって、そこには対話の必要性はなくなります。原理主義はすべてのグループと組織に対して脅威であります。科学的、宗教的、政治的、経済的、芸術的グループへの脅威であります。原理主義は、こうして、不寛容、権威主義、威圧、教条主義、狂信主義、党派主義、性差別、人種差別、外国人嫌い、そしてあらゆる種類の他者否定と他者支配へと移っていくのです。 15 このような状況の中で、わたしたちは真の時のしるしとして、諸文化、諸世代、男性と女性、諸宗教、そして現代主流のさまざまな考えの間での対話をしようという運動があるのを発見しました。それによって、互いに知り合い、認識し合い、豊かさにおいても健康状態においても異なる世界で兄弟的関係を築きあげるために共に歩めるような何かを捜し求めていこうという雰囲気を創りあげたいのです。こうして、多くの宗教はその本来の純粋な創立の精神に立ち返り、平和と連帯性に向けて大きく開かれていこうという努力を引き受けたのです。 イメージからシンボルへ 16 疑いなく、わたしたちの世代は言葉よりもイメージに結びついています。次々に現れるイメージは常にわたしたちの目の前を通り過ぎ、わたしたちの注意を引き、思考することなく決定するように仕向けます。イメージの文化は即時性の現象を強めます。過去から切り離され、諸価値を相対化してしまう主観的プロセスのうちに、現在の要求に振り回されて生きています。わたしたちの生活は社会的コミュニケーションのマスメディアが命じ、促すものによって絶えず影響されているだけでなく、わたしたちの存在のもっとも秘められた次元でさえも、物のように公に晒され、消費されているのです。メディアは、市場の力に結び付けられています。人々は、暴力によって生まれた闘争について止むことなく提供されるその情報の中で生きています。メディアは、フラストレーションの循環というわなにかかった人類のイメージを流布しています。 17 他方では、イメージの文化が想像性を不毛にし、人間をイメージの消費者にしてしまうという意識も高まってきています。それで、イメージに代わるものを探す試みが教育的な場で増えてきています。それによって人間としての想像的また創造的能力を刺激し、シンボルの創造者である人間の在り方を守ろうとするのです。イメージに代わるシンボル的なもの(詩、儀式、イコン、ダンス、音楽、ジェスチャーなど)は、個人的な真理と超越的なものとを深いところで結びつける助けとなりますが、そういったものが社会の中で急速に増えているのです。 18 メディア倫理に関する要求は市民社会で増加しています。ですから、メディアは人間の惨めさの牽引車になるだけではなく、かえって正義と平和と被造物の十全性の真のイメージを提供するグローバルな目的と意味をもった希望の創造に貢献することでしょう。 19 歴史的現実が立証しているのは、良い麦と毒麦が一緒に成長する(マタイ13・24−30参照)ということです。ここには福音的識別への強い要請があります。福音的識別はわたしたちが個人として、あるは組織として取るべき転換の方向性を定めるために必要なものです。わたしたちはこの現実によって引き起こされた現在の「信仰の危機」を、恵みの時―「カイロス」―として理解しています。この恵みの時がわたしたちに要求しているのは、危機の時代のチャレンジに対してわたしたちの信仰者としての経験を再創造することです。それはわたしたちが信じていることを表明する絶好のチャンスなのです。信仰は人間性そのものを丸ごと浮かび上がらせるものであり、平和と善のために献身します。同様に、わたしたちはこの「倫理的危機」を新しいいのちの倫理を打ち立てる恵みの時と考えています。それはバラバラになった世界を克服する一貫性のある倫理です。思想と労働、祈りと活動、言葉と献身、信仰と生活、信仰や希望への心の渇きとその目に見える形への具現化(実践、儀式、機構)などを調和と十全性をもって克服していく首尾一貫した倫理を打ち立てる時なのです。 小さき兄弟の答え 20 総集会の間、わたしたちは様々な言語を用いてコミュニケーションをとり、時には非常に異なった前提からテキストを解釈しました。そして、わたしたちの社会を批判してきた多くの要素が、実はわたしたちの生活の中にあることを認識しました。全世界の暴力とそこに住む人たちの毎日の叫び声は、わたしたちの心を痛めています。わたしたちはそれぞれ自分たちの身に起こることとして、同時代の人々の不安と恐れを分かち合います。社会がバラバラになっている事を指摘しましたが、それは、わたしたちの間にも、また共に生きている兄弟たち一人一人の生活にも存在するのです。わたしたちは、自分の信仰と生活を一貫したものにしようともがいています。わたしたちに間に緊張が生じるのは何かを決めようとするときです。絶えず変貌する世界にありながら、全世界に広がる兄弟体の現実と本会が受け継いできた組織機構とをどのように調和させようかとする時は、特にそうです。より大きな信頼の雰囲気を創り上げ、相互の一致を推し進める必要性をわたしたちは絶えず認識しています。私たち自身がタウのしるしを身に帯びているのです。小さき兄弟の生活そのものが、生涯にわたる回心の生活なのです。 21 歴史の正にこの時、そして、しるしと矛盾に満ちた世界にあって、小さき兄弟とは誰なのでしょうか。福音の証し人となるための小さき兄弟独自の方法とは何なのでしょうか。小さき兄弟が行う特有な貢献とはどのようなものでなければならないのでしょうか。総集会の間わたしたちは、自分たちの召命の最も深く霊的な根源に触れることになるこれらの質問に答えようとしました。わたしたちは、総長「レポート」から始めて、この時代が求めている信仰にかかわる答えとして、五つの考察ポイントに要約しました。小さき兄弟とは、信仰の人であり、対話の人であり、巡業する者(an
itinerant)であり、喜んでメッセージを伝え、「兄弟体として共に得る聖性」のしるしを生きる人であります。これら五つの要素は相互に絡み合って、宣教のもうひとつの象徴的な姿をつくりあげます。この宣教こそ、わたしたちが教会と世界に生きる人々に自らを捧げたいと願っていることです。フランシスコに習い、わたしたちも今日から始めましょう。 信仰の喜び 「人よ、主なる神があなたをどんなにすぐれた身分に上げてくださったかをわきまえなさい。神はあなたを、体においては御自分の愛するひとり子の『似姿』に、霊においては『御自身にかたどって』創造し、形作られたのです」(訓戒5)。 22 神の似姿に創られた小さき兄弟は、自分自身と、また自分の起源について不思議に思うのです。主よ、あなたはどなたですか。そして、わたしは何者なのでしょうか(Cf.
The Deeds of St. Francis and his Companions, ABF IX, 41)。考察、養成、体験、そして教会の中での生活を通して、小さき兄弟は自分の生活様式が、わたしたちを存在と救いと聖三位一体の生命そのものに呼んでくださった神のイニシアティブとともに始まるのだということを発見するのです。このイニシアティブは神の寛大さの恵みです。神の「甘美さ」がわたしたちを覆うのです。わたしたちは、毎日の生活の中で神の食物を味わい、神と共に「自分も愛する者」となり、行動をもってそれを表していくのです(Cf.
Duns Scotus,Ordin.IIIdist.28)。この愛の贈りものに捕らえられて、相互愛の掟がわたしたちを動かし、この深い喜びを他の人々と分かち合うように駆り立てるのです。「ああ、愛する、愛そのものであるお方よ、誰もあなたの愛に到達することはできません」(Cf.
Iacopone da Todi,Laudes79,5;2Cel196)。 23 総集会の間、聖書からの二つのイメージが神の三位一体のいのちの寛大さを表現しました。 a.
主の洗礼のイメージ。主は、「天の高みから」御父の喜びを聞きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)。主の宣教の始まりは「御父が御子のうちに見出す喜びであり、御子が御父のうちに見出す喜びです。それは聖霊の喜びだったのです」(p56ティモシィ・ラドクリフ「喜びと平和」参照)。神のいのちの中心には、収まり切れないほどの愛があるのです。 b.
最後の晩餐のイメージ。キリストは弟子たちの危機の真っ只中で、聖霊に動かされて、誰をも分け隔てしない愛の行為をもって愛の言葉を告げられました。主は弟子の足を洗います(ヨハネ13・1−20)。そして、御自分の生命に彼らを与らせます。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22・19)。両方のイメージには、贈りものに変えられていく信仰の喜びが見出されます。謙遜なしもべは、苦しみを受け、十字架を担い、多くの人々がいのちに入るようになさいました。ここに、主の愛の最高の表れがあります。「兄弟の皆さん、良い牧者に注目しましょう。主は御自分の羊を救うために十字架を堪え忍ばれました」(訓戒6、ヨハネ10・11)。 24 わたしたちは、これらのイメージを前面に打ち出します。なぜなら、人々が恐れと不安を抱えて生きている今の時代にあって、またバラバラに引き裂かれている社会にあって、さらには人々が生きる意味を失いかけているこのときに、「天の高みからの」この啓示は、世界の暗闇の真っ只中で閃光のように光り輝くものだからです。その上、二つのイメージのいずれも、兄弟性、権威、宣教というわたしたちの伝統にとっても中心的なものです(訓戒4、2LtF6-13)。この三つは総集会の鍵となるテーマであり、レンズでもあります。わたしたちはこのレンズを通して「時のしるし」を見分け、過ぎ行くこの世のイメージにもみくちゃにされながらも、わたしたちの存在の意味を再創造する方法を見つけます。これらの力ある聖書イメージから分かることは、信仰とは単なる教義とか修徳プランのようなものではない、ということです。わたしたちの信仰は、メディアのイメージによって支配されてしまうことはありません。メディアはしばしば暴力とご都合主義で満ちています。信仰には他の源泉があります。それはイエスの生涯に反映されています。イエスは自分の洗礼の中に入るようにわたしたちを招いています。それによって、わたしたちが御父の喜びと聖霊の刷新する力を受けるためです。イエスに従っていくうちに、わたしたちは自分自身を他者に与えることへと招かれます(1ペトロ2・21、Rnb1・1)。巡業(itinerancy)での出会いと対話を通して、わたしたちは隣人との生活を分ち合い、彼らとともに生活への情熱と喜びが周りに広がっていくようなしるしとなる文化を創りあげるために最大の努力をします。「自分自身のためには何もとっておかないようにしてください。ご自分をすべて残りなくあなたにお与えになるお方があなたを残りなく受け取ってくださいますように」(LtO
29)。 25 ポルチウンクラに集まり、サン・ダミアーノの祈りの雰囲気の中で、またアシジの町の通りに沿って歩きながら、フランシスコとクララに従うわたしたちは、わたしたちにとって象徴的な場所を自分の目で見、自分の心で触れる好機をいただきました。わたしたちが神からのしるしの言葉として理解したのは、喜びと交わりと連帯性の分かち合いをもたらす者として神がわたしたちを招いておられることです。信仰は単なる知識ではありません。信仰とは神と人との間で常に開かれた対話です。神は歴史の中で人間に語りかけ、人間は歴史の中から神に答えます。それは絶えることなく続く相互の関わりです(ヘブライ1・1)。小さき兄弟は、すべての被造物に豊かに注がれる御父の知恵と喜びに与る者として、信仰を心の深いところで体験します。小さき兄弟は、隣人のうちに刻まれている御子のイメージを見、異なる人との出会いと交わりのうちに聖霊が住んでおられるのを発見します。信仰を通して小さき兄弟が見るのは、「神があらゆる被造物のうちに隠れておられる」(ボナベントゥーラ、Itin.Chap.I-II)ことです。 26 わたしたちはこの総集会の中で決めたことをもう一度再確認しようと思っていますが、それはわたしたちの養成、わたしたちの「兄弟体が共に得る聖性」の生活、そして、わたしたちの福音化の在り方の手引きとするためです。しかも、これらの中心的なイメージを元にして、三位一体のいのちの中心的真理の光に照らされて再確認しようと思っています。信仰についてのこれらのイメージを具体的に示しながら、わたしたちは神のいのちを信じ得るものとしていきましょう。つまり、他の人たちと共にあるわたしたちの生活を平和の贈り物とし、わたしたちの生活を喜びの歌とすることです。これには不正義によって傷つけられた人たちの傷をわたしたちの涙で洗うことも含まれています。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16・20)。 27 最後に強調したいのは、わたしたちの信仰生活の特徴についてです。それは今こそ強調される必要のある事柄です。 a. 信仰生活とは広く行きわたっている豊かさです。わたしたちは自国の文化、言語、そしてアイデンティティーを通してそれを共有しています。わたしたちは小さき兄弟です。このアイデンティティーは修道士としての召命とか、聖職者としての召命ということを越えるものです。神のうちにある小さき兄弟としての生活において、わたしたちはひとつです(ガラテヤ3・28参照)。 b. 信じられるしるしとなるために、わたしたちの信仰生活は全人格を挙げてのものでなければなりません。精神、心、人間関係、そして、わたしたちが隣人に心を向け、隣人と出会い、受け入れるその在り方全体が問われるのです(Rnb23・8-11)。 c. この信仰生活は広大無辺な可能性にまでわたしたちを開いていきます。それは神が人類に与えられたものであり、「希望の保証」として、また「目に見えない諸現実の存在の証拠」(ヘブライ11・1)として具現化する倫理的要請が必然的に含まれています。 d.
フランシスコのように、信仰の賜物を得るために、わたしたちは祈らなければなりません。また、歴史の中に存在しておられる神と対話をするために、自分自身を開いていかなければなりません。「わたしの心の闇を照らし、正しい信仰と確かな希望、そして完全な愛をわたしに与えて下さい」(PrCr1-2)。 平和への道としての対話 「他方、あなたは天使の食物で民を養われ、神が用意された天のパンを民は苦労することなく手に入れた。それはこの上なく美味で、だれの口にも合った。この食べ物は、子らへのあなたの優しさを表わし、それを食べる人の好みに応じて、望みの味に変わった」(知恵16・20−21)。「そして、彼らのもとを去った時、以前に耐えがたく思われていたことが、私にとって魂と体の甘味に変えられました」(遺言1−3)。 28 対話の中に神が現存しておられるという事実は、聖書とフランシスコやクララの体験に根ざしたものです。分裂と痛みを抱えている現代にあって、神の受肉とわたしたちの回心の本質的なプロセスは、「神の甘美さ」を−ハンセン病者をも含めた−他者の中に見ることのできる信仰から始まります。そして喜びと深い交わりのなかで生み出されるコンパッションをもってこの甘美さを受け入れることのできる信仰、さらに正義と平和のために働くことができる信仰から始まるのです。対話はわたしたちの生活のすべての次元にかかわっています。被造物に対して、社会に対して、兄弟体の中で、そして宣教において、このようにすべての次元にかかわっています。わたしたちの態度、共同体、働きなどにおいて具体的な形で対話が実現していくとき、それは暴力と憎しみの怒号を黙らせる平和の雄弁なしるしへと変えられるのです。(cfr.
Ramon Lull, Gentil IV, Epilogue)。 29 ここアシジは偉大な宗教の代表者たちが集った所です。わたしたちがこの場所で行った対話について、わたしたちは焦点を「三つの側面」に絞りました。この三点はこれからの考察のための堅固な出発点となることでしょう。 30 (1)フランシスコの回心の生活は、彼の遺言の冒頭から見て分かるように、この世界からの逃避、密かに語られた言葉、権威ある者や身分の高い者から分け与えられた内的宗教体験、同時代の世界のチャレンジから逃れることなどに起源はありません。彼の回心の生活は、分かち合いと出会い、そして隣人との心開いた対話の中に起源があります。その対話には、なんとも醜く嫌悪したくなるような耐え難さと「苦々しさ」が含まれています(遺言1−3)。他者へのこれほどまでに常に心開いた姿は、サルタンとの有名な出会いの中にその頂点を見ることができます(1チェラノ57)。聖霊はフランシスコの生活を、その初めから終わりに至るまで導かれました。そして、わたしたちをも導こうとしておられます。聖霊は、孤立状態、個人主義、社会的に容認されている従属関係(それは疎外をもたらす機構である)を一掃するようにわたしたちを導かれますが、他の人々との真の交わりへとも導かれるのです。これこそ根本的答えであり、わたしたちが現代の信仰と倫理の危機に対して提示しなければならないものです。わたしたちはキリストを見るようにチャレンジを受けています。このキリストこそ「天からの甘美さ」であり、世界中で苦しんでいる人々の中におられる方です。そして、わたしたちはキリストの方へ顔を向けて自らを差し出すように、そして、フランシスコのようにキリストからの平和の祝福を与える者となるようにチャレンジを受けているのです(L3C26)。この対話の可能性を広げるために必要なことは、他者への応答に用意周到なわたしたちの姿勢です。同様に、神がご自分で確立しようとしておられるのは、自由な相互かかわりのダイナミックスです(SRS38-40,44-45)。勇気も必要です。他者の神秘に自分自身の心を開くということは、聖なる地に足を踏み入れようとすることです(出エジプト3・5参照)。そのためには、敬虔さ、謙遜さ、無防備さ、そして平和が必要なのです。「小さき者にふさわしく、柔和で、平和をもたらし、慎み深く、温和、謙遜であり、すべての人に対して、礼儀正しい言葉を用いて話すようにしてください」(Rb3・11)。 31 (2)
対話の精神の成長とそれが要求している実践は、必然的にわたしたちを浄めの道へと送り出します(Cfr.LtO50ff)。対話とは旅であり、復讐や偏見、搾取や暴力という日常的な歩みから人々を引き離すことのできるものです。対話に求められていることは、わたしたちの習慣的な活動、決まりきった仕事の連続、わたしたちの社会の特徴である異常に過敏な関係を中断させることです。対話には養成が必要であり、傾聴と受容の継続した訓練が求められています。対話を通して人は個人主義から脱却し、神の御前に自分の本当の個性、つまり「これ性」(haecceitas)を発見するのです(Duns
Scotus, Ord.II.d.3,p.1,q.5)。「人は神の御前にあるだけの者であって、それ以上の何ものでもありません」(訓戒19)。わたしたちの兄弟体と働きの場には、倫理的チャレンジがあります。それは、共に生き、共にかかわる、もうひとつ別なあり方を指し示す魅力あるしるしとなるように、というチャレンジです。それこそ、対話という道を通って到達するいのちの充満なのです。 32 (3)対話への回心のこの歩みは信仰に基づいており、信仰の目でものを見ることを可能とします。それはまた、神のことばへの従順の厳格な実践へと導きます。聖体のうちにみことばが現存されるように(cf.LtO26-27)、常にふさわしいとは言えない教会という体の中に(遺言4−13)、わたしたちの兄弟体という脆い体の中に(Rb10)、わたしたちの兄弟姉妹の中に、わたしたちの隣人の中に(2LtF1)みことばが現存しておられるのを見て従うことを可能とします。権威とは賜物であり、特権ではありません。このように、権威はキリストにしたがう中で奉仕へと変えられます(訓戒4)。回心の対話はわたしたちを清貧の生活へと献身させます。清貧の生活は、わたしたちを個人としての豊かさと温かな交流ができるようにさせ、物を分かち合うようにさせてくれます。それはまた、わたしたちを隣人という賜物の受け皿とします。そして同時に、各人が受けた賜物を他者のために備える用意をするようにわたしたちに求めます。「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカ6・38)。対話の実践を通して、清めと愛の捧げものであるわたしたちの貞潔は、神との対話、男性と女性との対話、諸文化・諸宗教との対話、そして全被造物との対話へと開かれていくでしょう。わたしたちの全存在は、平和の挨拶という明確な像を結ぶことでしょう。わたしたちフランシスカンの伝統における誓願の人間的意味の再発見は、現代と将来の人々の神の国のしるしとなるのに役立つことでしょう(cf. VC27)。 平和の姉妹である巡業(itinerancy) 「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(ルカ10・5)。「兄弟たちは常に寄留者および旅人として、そこにとどまるように注意しなければなりません」(遺言24)。 33 現代はかつてないほど、多くの人々が男性も女性も子供も、よりよい生活環境を求めて移住しています。食物を求め、仕事を求め、家を求め、平和を求めて移住しています。この現実に触れるとき、自分自身も人間性において傷ついているわたしたちは聖霊によってこの巡業の旅(itinerancy)へと送り出されているのを感じます(遺言2−3)。なぜならば、これらの人々はわたしたちの兄弟ですが、生きておられるキリストのまさに似姿だからなのです。そして、このキリストこそわたしたちが従おうとしているお方なのです。「神の愛がわたしたちを駆り立てているのです」(2コリント5・14、フィリピ3・12−16参照)。貧しくさせられた人々との連帯の旅に求められているのは、無所有です。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」(ルカ9・3−4)。巡業の旅とは、貧しい人々に神の国を告げるために出かけ、わたしたちが彼らによって福音化される用意があるという確かな表現なのです(cf.GGCC93,1;97)。わたしたちが他の人たちと共に出かけるのは、必要な物が分かち合える共同体を造るためです。わたしたちは貧しい人々のうちにキリストを見ます。そして、わたしたちは皆が「働く恵み」(Rb5,1)を享受できるようにと願っています。尊厳ある生活の権利を脅かす機構があるとき、わたしたちは平和的に抗議するために自らを動員させます。わたしたちは巡業の旅を通して神経過敏な場所を通り抜けます。わたしたちの社会には深刻な不均衡と緊張があるからです。それは、様々な宗教間(キリスト教、イスラーム教、仏教、ヒンズー教)に、金持ちと貧乏人の間に、権力者と弱者の間に、奴隷と自由民の間に、男と女の間にある分裂です。わたしたちは平和と正義の証人となるためにその中を通り抜けるのです。新しい世界を夢見ている非常に多くの人々とともに、わたしたちは希望と平和の文化の建設者でありたいと願っています(John
Paul II, Angelus 18.11.2001)。小さき兄弟としてわたしたちが願っているのは、場所を切り開き、人間としての共通の尊厳を高揚する新しい関係を創り上げることです。その尊厳は、わたしたちの創造主である神から生まれ、わたしたちの贖い主キリストにおいて完全なものとされたものです(cfr.
Rnb 23,11)。わたしたちは、まさに「十字架に付けられた人間性」のしるしを帯びた旅をしているのです。 34 わたしたちは、この巡業の旅が他から科せられた価値観に基づくのではなく、わたしたち自身の体験の内から沸き上がってくるものであることを悟りました。わたしたちはそれを、兄弟体と組織のいずれのレベルにおいても更にもっと経験しています。もちろん、わたしたちは自分たちの心の混乱や闇のせいで、変化に抵抗しようとする誘惑をも感じています。はっきりと断言したい事があります。それは、わたしたちの抵抗している諸変化というものが、じつは信仰的な見方からすると、兄弟たちの運命を共有することを可能とさせるものだということです。彼らはこの世界が貧しくさせた人々であり、わたしたちがその運命を共有することによって、彼らの希望の真の姿を理解することが可能となるのです。 35 確かなことは、わたしたちが動いているということです。2001年の総評議会の間、そしてこの総集会の間、わたしたちは諸管区と本会が今いかに変貌しつつあるかを吟味しました。歴史の若い管区が力強く立ち上がっているのに対して、古い管区は自分たちの可能性が萎んでいくのをみています。何十年もの間、政治的理由で沈黙を守ってきた世界の諸地域は、今や力に満ちた声を上げています。わたしたちは、この総会において今のわたしたちの現実と過去においてわたしたちが生きてきた在り方との関係を吟味するために多くの時間を使いました。修練院、管区、分管区、管区長協議会といった機構の見直し、そして、リーダーシップの資質として求められているものの見直しという面から変化のプロセスに入ったのです。典礼や話し合いで用いられた言語の多様性は、これもまた、宣教に遣わされて世界に広がっている兄弟体としてのわたしたちのアイデンティティーを理解する上での小さなしるしなのです。経済的不安定、兄弟たちの数の激減(暴力による死をも含めて)、そして他の多くの要因が各地の兄弟体の上に重くのしかかっています。しかし、この現実は相互に関わり助け合うこと、強め合うこと、そして、希望が見えなくても希望していくようにと兄弟たちを促しているのです。他方では、数多くのプロジェクトが起こされています。それらが兄弟たちに受け入れられているのは、刷新された方法で調和させることを求めているからです。それは巡業という側面から見たわたしたちの生活の一面です。これらのプロジェクトの幾つかは、冊子「証し−時のしるしからしるしの時へ」(2002年ローマ総本部[翻訳準備中])で紹介されています。わたしたちの内的巡業の旅は、世の人々のとの出会いであり、解放と平和を目指して旅する人類共通のしるしです。この巡業体験は、世界の中でのわたしたちのあり方を変えつつあります。つまり、わたしたちの働き方、福音化の在り方、さらに真に兄弟であるために必要な倫理的要求を変えつつあるのです。この巡業の旅において、わたしたちは兄弟体が共に得る聖性への強い呼びかけを感じています。「兄弟たちはどこにいても、またどこで出会っても、互いに同じ家族の者であることを示し、一人は他の一人に自分の必要をためらうことなく打ち明けるべきである。まことに、母がその肉親の子を養い愛するとすれば、兄弟たちは、どれほど心をこめてその霊的兄弟を愛し、養わなければならないであろうか」(Rb
6・7-8; cf.
GGCC38ff)。 36 わたしたちの生活様式の巡業という現実は、刷新に向けて大地を育んでいます。わたしたちはこの総集会の間、わたしたちの生活の本質に戻るようにと叫んできました。巡業の旅は、以下にあげるものを「旅路の糧」として考慮するようにわたしたちに呼びかけています。 観想、祈り、黙想、祈りを込めた聖書朗読、そして聖体祭儀(cf.
Bonaventure, Itin.,Prologue4、冊子「“心の場”への旅」は、フランシスカン生活における沈黙の場と内的生活を再発見する助けとなります。ローマ2003年[翻訳準備中])。小さき兄弟の生活に於ける巡業の旅とは、おもに自分の本当の姿を感じ取り、招いておられる神の絶対的現存を聞き取るための内的過程です。それは従って、創造し、救い、解放する神に向けての全人格を挙げての旅でもあります。これらの実践はよく培われた愛のちからで、わたしたちの倫理感を養う手助けとなります。わたしたちは空ろな心で歩みを進すめることはできません。そのような心で進むならば、ゴールに向けた歩みはうわの空になり、さ迷ってしまうでしょう。信仰の光を持たずに歩めば無分別と動揺を生み出すだけです。 兄弟体において他の人たちと生活を分かち合うこと。わたしたちの兄弟姉妹たちと共に歩まないならば、孤立したり、絶望したりします。独りぼっちの食事では精神が枯渇してしまいます。巡業の旅とは、わたしたちが他の人たちと共に旅する細い小道なのです。兄弟体とは、旅が続けられるための恵みです。 生きている過去。それは、わたしたちの組織、知的伝統、フランシスカン霊性、健全な習慣、賢人たちによって、わたしたちに与えられたものです。わたしたちは、自分たちの伝統との結びつきを保たなければなりません。なぜなら、わたしたちがどこにも根を下ろしていなければ、その旅は賢明さも、たどるべき展望もないものになってしまうからです(Cfr.
Peter John Olivi, Principium 1 in Sacram Scripturam, a study)。 わたしたちの巡業の旅を支える規律と機構。わたしたちに絶対不可欠なことは、仕事を離れてちょっと立ち止まることです。それは、沈黙、静修、自己認識、手作業、読書、研究、そして信仰の分ち合いのための時を設けるためなのです。わたしたちの旅にこのような時間がなければ、硬くなってしまった心の土壌(行動主義、個人主義、横領、固定観念、ノスタルジー、怒り、注意力散漫、身の保全をイデオロギーに求めること)に気づくことが出来なくなってしまいます。また巡業の旅を共にする姉妹である仲間たちをふさわしく評価することができなくなるでしょう。つまり、自由、喜び、帰属感、開かれた心、自尊心、思考の明晰さ、そして被造物と「贈り物」として存在するすべてのものの真価を正しく評価することが出来なくなってしまうのです。 恵みとしての福音化の働き 「主があなたたちを全世界にお遣わしになったのは、言葉と行いで、主の御教えの証を立て、『この方以外に全能の神はましまさない』ことを、すべての人に知らせるためだからです。」(LtO
9)。 37 福音化は教会に固有の恩恵であり、召命です(cf.
EN 14)。これは、人類とその歴史に対して神がお取りになった親密な連帯から生まれました。「神は自分のひとり子を世にお与えになるほどこの世を愛された」(ヨハネ3・16)。キリスト教は聖霊の働きのもとに神の国の喜びをもたらした御子の使命を、歴史の各瞬間に創造的に継続していくよう務めています。これらの線に沿って、フランシスカン霊性の本質に戻りながら、わたしたちが思い起こすのは、「世界がわたしたちの修道院(cloister)である」(cf.
SC 63)ことです。そして、そこでのわたしたちの使命は神の声と神が主であるということを知らせる、ということです。ですから、わたしたちは、わたしたちの唯一の宝である神の国(マタイ6・21;RH
3参照)のあるところに、わたしたちの心もあるようにしたいのです。そして、わたしたちはイエスがすべての福音化と宣教の実践的規範(パラダイム)であることをはっきりと理解しています。従って、わたしたちは、イエスの行動原理を自分たちのものとします。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18−19)。わたしたちは小さき兄弟として自分の発意で出かけるのではなく、共同体を通してわたしたちに語られる主によって遣わされたから出かけるのです。わたしたちは自分勝手に自分の住むところを選びたいとは思いません。むしろ忘れ去られた修道院(cloisters)、つまり非人間的な修道院、そこでは美しさや人間としての尊厳が相変わらず損なわれています。わたしたちはそういう場へ惹かれるままに行きたいのです(cf.
Rnb 9・2)。わたしたちは、わたしたちの天幕に場所を広く空けたいのです(イザヤ54・2参照)。それによって、この世の最も貧しい人々の喜びと苦しみを分かち合うためです。教会はわたしたちに、「交わりの霊性を広げる」使命を委ねました。それは先ず、わたしたちの内的生活における交わりの霊性を広げることです。また、それは「教会共同体において、さらに教会を超えて広がっていきます。特に民族対民族の憎しみと無軌道な暴力で引き裂かれているこの世界で愛に満ちた対話を始め、継続していくことによって」(VC
51a)広がっていきます。わたしたちは真理の所有者として出かけたくはありません。私たちは、ただで受けたメッセージを、ただで与える(ガラテヤ3・18参照)ための取るに足らないしもべ(cfr.Rnb
23・7)に過ぎません。わたしたちが一人ひとりに心から伝えたいと思っていることは、わたしたち皆が同じ父を持つ息子・娘であり、兄弟姉妹であって、同じ希望をたずさえていることです。そして、当然のことのように、わたしたちがそれを一貫して実践したいということです。わたしたちがこの世のもっとも小さな人々にすることは、主御自身にすることになります。(マタイ25・31−46参照)。 38 わたしたちの主たる使命は、兄弟体と小ささというわたしたちの生活様式の「まさに核心に書かれて」います(cf.VC
25a)。小さき兄弟としてのわたしたちの生活は神の国のたとえ、つまり終末的なしるしでなければなりません。使徒職に励めば励むほど、個人的な献身を主イエスに捧げれば捧げるほど、また、共同体生活が兄弟的なものになればなるほど、組織としての小さき兄弟会固有の使命にもっともっと参与するようになり、わたしたちは本当に福音化する者となるでしょう。「人は、キリストのうちに生きれば生きるほど、他者の中におられるキリストに仕えることができるようになり、はるか遠くのまでにも足を伸ばし、きわめて大きな困難に直面するようになります」(VC
76)。 39 このような、人間とイエス・キリストの働きとの深い調和から、カリスマの多様性に参加するようにわたしたちは他の人たちを招きます。このカリスマの多様性は聖霊がお与えになるものであり、聖霊は兄弟たちの間に福音化の新しいあり方を生み出し、形作っていかれます。福音化の方法における画一的で同質なヴィジョンほど非フランシスカン的なものはありません。福音を創造的に、またラディカルな方法で具現化していく様々な発端を見つけ出し、活気づけ、実行していくのがわたしたちのカリスマなのです。フランシスコが兄弟たちに話した直観的な言葉は、福音化のはたらきに適用することができます。「働くことを知っている兄弟たちは、働きなさい。そして、習得した技が自分の魂の救いに反せず、躓きなしに行使されうるなら、その技を生かしなさい」(Rnb
7・3)。同様にわたしたちが招かれているのは、預言的で明確な多様性のしるしを示すことです。それはまた、信徒や老若男女のすべての人たちと手を結んで果たす福音化活動を通して示すことでもあります。 40 特別に意味のあることがあります。それはわたしたちの国際兄弟体です。この兄弟体は、他を一切排除する文化的仕組みの真っ只中にあって、国々、人種、文化の間に交わりを証ししています。私たちはどこにいても、わたしたちの生活をもって受け入れ、正義を行い、寛容で、平和な世界が可能だということを明瞭に告げ知らせなければならないということを強く主張したいと思います。 41 わたしたち小さき兄弟は、謙遜と真理において、わたしたちの全生活、会の機構、様々な福音化活動の評価をしっかりとしたいと思います。それによって、意味の在る方法で真福八端の精神を証しし、神による世界の変革に真に協力していくためです。わたしたちの不忠実さにもかかわらず、神はわたしたちを信頼し続けておられます。そして、わたしたちに絶えず語りかけておられます。「来なさい」(ヨハネ1・39)、そして「行きなさい」(マルコ16・15)と。わたしたち自身が神によってあらためて捕らえられるままにしましょう(フィリピ3・12参照)。 兄弟体が共に得る聖性 「私たちの主イエス・キリスト、このような方を兄弟および息子として持つのは、ああ、なんと聖にして愛情に満ち、なんと心地よく謙遜で平和に満ち、甘美で愛すべく、すべてに越えて望ましいことでしょう!」(1LtF
13)。 42 総集会の間、わたしたちは何度も繰り返して「わたしたちの生活様式は福音化のための最初の道である」(cf.
GGCC 87, 1-2)と言ってきました。わたしたちは宣教する兄弟体であり、三位の愛の交わりである神の聖性において、信仰の喜びを目に見える形で示すものです。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです(レビ11・44)。(1ペテロ1・15−16)」。わたしたちは神に似せて創られました。そして、この似姿の中には、一致と個別性と交わりとが調和良く共存しています。この似姿を実現することが宣教する兄弟体であるわたしたちの福音プロジェクトなのです。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15・9)。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」(ヨハネ16・13−15)。信仰と対話と巡業の旅を通しての他者に対するわたしたちの兄弟的回心ということを念頭に置いて、わたしたちは多様性のうちにある交わりである神、そして交わりのうちにある多様性である神を証ししていかなければなりません。 43 フランシスコとその兄弟姉妹たちの体験に基づき、神が聖なる者であるように、わたしたちはイエスの祈りにおいて聖なる者になっていくプロジェクトを受けています。イエスの恩恵を通して、また、イエスの御跡に従うことにおいて、わたしたちの生活には未来が開かれています。わたしたちが専念しなければならないのは、わたしたちの世界の傷を癒すこと、そして、わたしたちの起源と共通の定めから来る一致をすべての人々に伝えることです。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17・20−21;cf.
Rnb 22・43-55)。「主よ、あなたはどういうお方ですか。そして、わたしは何者なのでしょうか」(ABF
IX 41,cf.n.22above)という問いかけに対するわたしたちの答えの核心とその意味は、兄弟体が共に得る聖性の実践の中にあります。 44 この生活様式、あるいは親しい交わり(conversatio)には、信仰が必要です。信仰はわたしたちを刺激して出会いと対話の道を進ませて行かせます。この道を進んで行くと、社会の亀裂があるところたどり着きますが、わたしたちはそこにおいて、平和と正義という共通のプロジェクトの内に兄弟姉妹たちと一つになるのです(cf.
GGCC 69)。こうして、「世界に住む人々に対して模範と鑑」(TestCl
20)になっていくことでしょう。こうして、各地域、管区、そして国際的な場と諸機構(わたしたちはまさにその中で『一つの家族の一員として』共に生きています)において、このプロジェクトが具現化されます。そして、それが将来のいのちのシンボルとなり模範となるのは、わたしたちがそれを具体的に示すときです(Rb
3・1-4; 6・7-9;5・1;10・1-5;Test
16-22) 。すなわち: ・
共に祈るそのあり方において(cf.
GGCC 23・2−3) ・
共に住み、自分自身と持っているものを分かち合うそのあり方において(GGCC
39-42) ・
「単純な者として、すべてのものに服従する」ことによって(GGCC 64) ・
病人の世話をするそのあり方において(GGCC
44) ・
「他の人々の働きが成功を収めたときに喜び」、心から嬉しく思うことによって(GGCC
42・1) ・
「主があなたに平和を与えてくださいますように」という挨拶をもって、すべての創られたものに敬意を表すことによって(cf.
LegP 101f;MP 26)。 .45 「兄弟のように共に住むのは何とうるわしく、楽しいことか」(詩編133・1)。とはいえ、宣教する兄弟体へと自分自身を変えていくという課題には、回心という大きな挑戦が伴っているということを、わたしたちは発見しました。わたしたちは、心と精神において、また手を通して、自分の言葉で、わたしたちの召命の現実を目に見えるものにしていく方法を探しています。「宣教方法論の中でもっとも大きな反対に出会っているものは、まさに福音的な方法そのものです。つまり、兄弟体として和解をたずさえて、二人ずつ出かけていくという、まさに福音的方法そのものなのです」(ジャコモ・ビニ「総会でのプレゼンテーションIII.5」p39
n77参照)。 神は、わたしたちが世に出て行くようにと、呼ばれた 46 わたしたちの考察を結ぶに当たって、以下のことを提案します(また、すべての兄弟たちが同じように考察することを勧めます)。わたしたちが初期養成と生涯養成の旅をしっかりと引き受けていくために、わたしたちの生活すべての側面に影響を及ぼす回心に向けた養成の旅(Cf.
RFF 45)の本質的な要素の一つ(cf.
RS 31)として学問に注意を払うこと。わたしたちが生きている信仰の危機、倫理の危機の時代にあって、わたしたちはこの時代に忠実であり続けるために、わたしたちの諸聖人、指導者、霊的大家、知的大家、そして福音化の奉仕の大家たちによって照らしを受けながら、わたしたちの伝統の源泉に立ち返っていく必要があります。昔の人々がその時代にあって、どのように行動していったらよいかを学んだように、わたしたちもこの時代にあって、どのように行動したらよいかを知ることができますように。彼らがわたしたちの旅に伴い、照らしてくださいますように。以上に述べてきた言葉と挑戦は、ほんとうに単純なことのように思われます。それは福音の道の問題です。みことばは、喜びと単純さのうちに、対話と巡業の旅(itinerancy)という形をとっておいでになりました。みことばは、良い知らせを述べるために小ささの内においでになりました。人となられた御言葉である主は、わたしたちの兄弟となることを厭われませんでした。主は、ご自分のいのちを友人たちのために与えられました。主は、わたしたちの疑いと恐れを取り除くために復活なさいました。あの日、わたしたちは「福音とわたしたちの主イエス・キリストの御跡にもっと身近に従う」(New
Formula of Profession; GGCC 5・2)
ことを神に約束しました。わたしたちの小さな「はい」を、もう一度、そして常に、受肉した神の偉大な賜物に対して宣言させてくださいますように。 全能、永遠、正義、慈しみ深い神さま、 惨めなわたしたちに、 お望みだと知ったことを あなただけのために果たさせてください。 また、あなたに喜ばれることをいつも望ませてください。 こうして、内面が清められ、照らされ、 聖霊の炎で燃え立たされて あなたの子、わたしたちの主イエス・キリストの跡を 踏み従うことができるようになるでしょう。 そして、いと高い方、 あなたのお恵みだけに頼って あなたのもとにたどり着くことができますように。 あなたは、完全な三位一体のうちに生き、 治め、栄光のうちにおられる 全能の神さまです。 世々に至るまで。 アーメン。 |