小さき兄弟会総集会
ポルチウンクラ
 
(サンタ・マリア・デリ・アンジェリ)
2003・05・25−2003・06・21
(日本語版)

総長報告(第三部)
教皇メッセージ 総長報告 (0)  (1)  (2)  (3) 特別講演 総括文書  (1)  (2)  (3)

総長報告 第三部

 

 T.福音化と宣教 (nn. 109-122; 146-170)

福音化:創造的な愛をもって他者のところに赴くこと 

フランシスコとの新たな出発 

68 宣教(missionというものが、地理的なものを越えて、すべての人々のもとに遣わされるという意味であるなら、福音化(evangelization)とは、福音によって征服されること、すなわち、私たちの人生を変えられた方、そして、私たちがすべての人々に伝えたいと願っている方との出会いによって征服されることを意味しています。同時に、すべての召命もまた、宣教(mission)であり、すべての宣教は福音化なのです。福音化の中心には復活された主がおられ、私たちに呼びかけ、私たちを主のブドウ畑に送り、人生の旅路において、苦難からの脱出にあたり、私たちに同伴してくださいます。聖霊が私たちに内在しておられるので、私たちはどのような歓迎を受けようとも、喜びにあふれて希望をもたらす使者となります。いつも旅をし、いつも人に会い、いつも神の国を築くために働きながら、神の国は近いと感じることができます。 

69 フランシスカンの宣教師は、地理的な条件に縛られることはありません。全世界が私たちフランシスカンの修道院(cloister)なのです。ですから、管区の管轄領域やフランシスカン奉献生活の記念碑を建てることに夢中にならないようにすることが極めて重要です。それでは福音に忠実な生き方とは言えないでしょう。私たちは命の種をまき、神の国の種を世界中に広めるために主に呼ばれ、この世界に遣わされているのです。 

福音と私たちの生活様式(forma vitae)に忠実であること 

70 巡業の旅の宣教的な側面、つまり歩き回って福音を証しするあり方は、フランシスカン家族の主要な改革の特徴でした。私たちの霊性の基本は、出会いの霊性であり、他者のもとに出向いてゆく霊性です。それは、家の中でじっと待っている霊性ではありません。たとえ教会にとっては役に立つ多くの奉仕の務めも見直しが必要です。私たち [固有] の在り方や働き方を同化しすぎてしまいます。私たちの預言者的な飛躍の力を弱めて福音を証しする範囲を狭めます。そして私たちの宣教(mission)を修道院や教会に通ってくる一握りの信徒の狭い範囲に限定してしまうのです。フランシスコは私たちにもっと違った世界を切り開いてくれました。巡業する者としてあり方の次元をはっきりと見いだすことによって、私たちのカリスマであるいつも途上にあるアイデンティティーは(世界の各地で生まれ成長し続けている大きく様々なムーブメントにはっきりと見られます)、再び輝きを取り戻すでしょう。私たちはクリスチャンを止めてしまった人々や、未だなっていない人々(神もキリストも教会も信じていない非常に多くの人々)のもとに赴いて宣教するように求められています。多くの人々の消費主義的で利己的な宗教心を、復活されたキリストに対する生きた、生命にあふれる信仰心に変えてゆくことは私たちの責務です。とにかく出発すること、始めることが必要なのであって、成功するか失敗するかは重要ではありません。主は困難があっても出向いてゆくように求めておられます。「私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」 

自ら福音化される勇気 

71 「それで、主は自ら私を彼ら[ハンセン病者]の中に導いてくださいました。・・・こうして私は、その後しばらくとどまって、世俗を出ました。」(遺言1-3)他者に出会うために福音の教えに従い、怖れずに武器や所有物を持たずに出かけるならば、私たちはフランシスコのように福音化され、心も変えられ、回心の恵みをいただくことすら可能になるのです。このような計らい(projects)を私たちと共に遂行してくださるのは主だからです。それは自由と解放をもたらす、いのちと献身の計らいなのです。愛は常に創造的であり、何ものも怖れることがありません。福音化を目指す宣教師の道は信頼のしるしであり、それは怖れを乗り越え、他者の中に神への新たな信頼を芽生えさせます。それは、信仰を強め、私たちの召命を生きるための新たな熱意を生み出すのです。 

現代の人々への誠実さ:フランシスカン福音宣教の本来の場は関わりが衰弱しているところに 

72 フランシスコの時代に社会の最下層にいた人々とはハンセン病者でした。フランシスコは彼らに仕えるために彼らの間で暮らしました。キリスト教世界がもっとも怖れた敵は交戦中のサラセン人でしたが、フランシスコは武器を持たずにエジプトのスルタンと会って対話することを切に願っていました。盗賊の住むモンテ・カサーレの森、司教と市の当局者が和解したアシジの司教館のようなところは、フランシスコと今日にいたるまで彼に従う多くの者にとって特別な活動の場でした。 

73 今日でも、各兄弟共同体は独自の文化的・社会的背景の中で、福音宣教にふさわしい特別な場を見つけなければなりません。たとえば、人々が疎外されたり、悲惨、緊張、不正、抑圧、暴力などに苦しめられたりしている所です。そのような所でこそ、友情と共感をもって、黙しながらも意味ある行動で、慎み深く人々と関わる必要があるからです。 

74 和解と平和は現代社会が探し求めている最も貴重な恵みです。この二つの恵みを求めることが、フランシスカン福音宣教のあり方として最優先されるべきです。本物の宣教形態というものは、大陸、民族、国家などの制約や境界を越えるものだからです。貧しい人々、弱い人々、底辺に追いやられた人々は、私たちが彼らと共に居て、あかしの言葉を分かち合ってくれるのを待ち望んでいます。私たちは派遣されることを望んでいる兄弟たちを、一致団結して送り出さなければなりません。彼らは私たちの励ましと同伴を期待しています。一つの新しい宣教の波が本会を根底から刷新する源泉となり得るのです。 

最も長く、最も労力を要する宣教の旅路 

75 衰弱してしまったところ、わたしたちのミッションの場であるところ、おそらくほとんど忘れ去られたところでしょう。しかし、それはもっとも緊急に和解と一致が待ち望まれているところです。それは、わたしたちの「こころ」、神と共にあるいのちです。それはまさしくわたしたちの召命そのものです。もし自分自身から、或いは他者から逃げるだけなら、一体どこに向かっているつもりなのでしょう。もし自分自身と、自分の欲望と、自分の過去と、自分の仕事と、一緒に暮らす兄弟たちと和解していないならば、どうやって和解を人々に告げ知らせることができるのでしょうか。もし自分自身を受け入れることができないならば、どうやって平和を語ることができるのでしょうか。 

76 残念ながら、内的な傷や不満、共同体との緊張などのために宣教師となった兄弟が少なくないのです。また、「自分の」縄張りをはりめぐらし、その中に引きこもるような宣教師も少なくありません。そのような場合、必ずしも人々に対して心を配るとは限りません。むしろ、おもに自分自身、自分の安全と特権に心を配ることが多いのです。「宣教の旅」を自分の内側から始めなければ、その他のすべての旅、つまりその他のすべての福音化活動は、福音がもたらすはずの成果をあげることができないでしょう。アシジの聖者に見られるあの創意に富んだ愛を自分のものにすることはできないでしょう。フランシスコは、平和をもたらす人は幸いであるという福音書の個所を引用して、このように述べています「この世で堪え忍ぶすべてのことにおいて、私たちの主イエス・キリストへの愛のために心身の平和を保つ人こそ、まことに平和を実現しています。」(訓戒15 

最も大きな抵抗に出会っている宣教方法 

77 兄弟たちが最も大きな抵抗を抱いている宣教方法とは、まさに福音に基づいた方法です。つまり、二人ずつ世の中を旅し、兄弟体の中にあって和を保ちながら巡り歩くことです。一人一人の兄弟が様々な分野の使徒職で能力を持っていることは疑いがなく、そうした能力は確かに評価されています。兄弟が個人として率先して行なった事業が良いものであり、時の試練に耐え、長続きしていることも私たちは知っています。しかし、今日私たちに求められているのは「兄弟体が共に得る聖性」(”fraternal sanctity”)、すなわち、共同体として計画し実行する福音化活動です。これを理解し実行に移すのは、個人でやるよりおそらくもっと難しいのでしょう。そのためには個人主義を捨てることが必要になりますが、それは福音の教えにかなっています。それはまた、私たちの召命(vocation)と使命(mission)によりふさわしい在り方です。さらに、私たちを取り巻く社会――未だかつてないほどに分裂と暴力と戦争の試練にさらされている社会――にとっても、より意味深く、分かりやすい在り方なのです。 

提案 

     総本部(と各管区本部)の海外宣教事務局の再編成 (nn.167-168)

     本会全体のために働く諸管区共通の兄弟共同体 (n. 166)

     新しい拠点の設立に向けて (n.162) 

U.長上職と従順(権威による奉仕と従順の奉仕) (nn.171-186) 

「従順の生活へ受け入れられる」(Rb 2.11) 

78 今日では、社会においても修道生活においても、権威と従順の役割を明確にするのは容易なことではありません。過去のモデルはもはや私たちのメンタリティにはそぐわないようです。個人のレベル、地域や管区のレベルで見られる自由と自立、自己決定を「主張する声」は、あらゆる形の権威に対する疑念や不信感を醸し出しています。最近は個人の価値というものが評価されるようになってきましたが、だからといって権威と従順という人間による仲介を「曖昧にしたり」、廃止したりしてはなりません。聖フランシスコは自由と教会への従順、個人の尊敬と兄弟体の価値といった、互いに相関関係のある価値を調和させるのに見事に成功しました。もしも第一の権威が、会のまことの総長である聖霊だとするならば(2チェラノ183参照)、兄弟会に入会するということは、「従順の生活へ受け入れられる」(Rb 2,11)ことを意味します。裁可された会則は最初から最後まで、人間による仲介への従順の義務について述べています。従順の義務は、すなわち主に忠実に従うことの保証なのです。従順とは、神に身を委ねることであり、必要な種々の役割や務めにおいて兄弟に身を委ねることでもあります。 

呼ばれ、召集されて(called and convoked) 

79 「修道誓願とは自分を神と教会に贈り物として捧げることである。つまり、修道会の共同体の中で活かされる贈り物である。修道者は自分の個人的な召命のためにのみ呼ばれているわけではない。彼らの召し出しは『招集』でもある。なぜなら、彼らは他の者たちと一緒に召しだされ、互いに日常生活を分かち合うように呼ばれているからである」(Fraternal Life in Community 44)。 教会のこの言葉は、会則と会憲によって強められ、さらに雄弁で明快なものになっています。この数年間わたしたちは、生活様式forma vitae が絶えず自分を評価する基準点であることを繰り返し明言してきました。今日、会を本当の意味で改革するためには、会則と会憲がわたしたちに求めている従順の態度があれば十分です。時代とか方法とか文化の違いなどを口実にしてはなりません。私たちの兄弟会への帰属意識は、フランシスコが神学的価値を認めていたこの従順の上に成り立つものです。奉献生活に対する私たちの考え方はこれによって計られ、その結果、孤立するか交わるか、自己満足の独立か兄弟関係の樹立か、他者への無償の奉仕か自己完結型の選択か、といった具体的な態度が生まれるのです。どちらの態度をとるかは、私たちが本当に兄弟会を大事に思っているか、つまり、個人レベル・管区レベル・世界的レベルで従順を大切と考えているかどうかによります。 

80 最近数年間、兄弟生活と個人主義の問題についてずいぶん話し合ってきました。もうこの話にはうんざりしているかもしれませんが、それでいて充足感はなく、望みが報われていない、傷がまだ癒えていない感覚が残っています。観念的な話し合いはこれ以上無用です。今私たちに必要なのは、誓願を立てた生活様式 forma vitae に合致した回心の旅を始めることです。 

信頼の奇跡 

81 奉仕の職務とは無償の贈り物であり、また聖霊から与えられたものであると理解し生き抜くとき、何の見返りも求めない寛大な姿が見えてきます。特定の役務に呼ばれた人は、神にひいきにされている者、優れているかどうかに関係なく神に選ばれた者、神の愛と信頼の対象となった者なのです。どのような職務も、それに伴う責任を果たすだけでなく、謙遜な感謝の念を持つことが求められています。長上(Minister は自分に託された各兄弟を(あるべきはずの姿でではなく)ありのままに主の前に受け入れ、福音的生活設計(gospel life project)を実践するにあたり信頼をもって同伴する責任があります。 

     私たちが共に暮らしているのは主が召集してくださったからであり、私たちは互いに助け合って(共同責任、補助性の原理)主に向かい、主のみ顔を探したいと願っています。また、私たちは主のみ言葉を証しし、平和の国(神の国)を築くために世に送られる心構えでいます。

     神に信頼することによって、各兄弟の多様性とかけがえのなさに対する相互信頼が生まれます。私たちの関係を正し、フランシスカンとしてのアイデンティティーを生き抜こうと思うならば、この信頼を地域・管区・世界の各レベルで強めていかねばなりません。 

すでに始まった回心 

82 権威と従順の関係を恵みと信頼の「奇跡」として受け入れることができれば、個人の責任感が芽生え、それは対話のうちに成熟し、権威主義や受動的な服従を退けることができるでしょう。 

83 この動きは会の中でも発展しつつあります。長上を組織の管理者とか、伝統を守らせる存在としてよりも、会則と会憲が示すように、霊的に鼓舞する人として考える兄弟が増えています。この新しい考え方を身につけるためには回心、自分を空にすること(kenosisが必要です。もはや、権威の立場に就いたらどんな利点があるかとか、最も経済効率のよい組織の運営方法は何かとか、管区の兄弟体に「平穏」と秩序を取り戻すにはどうすればよいか、などを考えている時ではありません。今必要なのは、むしろ、主に従う道において各兄弟に同伴するという重大な責任を担い、それにフルタイムで関わることです。また、既存の組織を私たちのもとにやって来る人々の生活に合わせるように出来るだけの努力をしたか、と自分に問うてみることなのです。 

84 理事や修道院長や養成担当者の養成に力を尽くしている管区長たちがいます。彼らは自分で出かけてすべての兄弟共同体を訪問して共同体の祈りの生活や兄弟生活を鼓舞し、それぞれの修道院会議にも出席しています。しかし、それと違って、その他のことにかかりっきりで、「自分自身を養う牧者」(Ez 34,2)になる危険な道をたどる管区長もいるのです。こうした危機的な状況は、危機とは気づかずに放っておくと、不満と失望を抱える個人主義的な兄弟を増加させます。彼らは自分個人の利益を最優先に追求するか、さもなければ退会してしまいます。そうなると、どんなに新しい召命が増えても兄弟会を救うことはできないのです! 

提案 

     「総長は、全兄弟一人ひとりに対し、また各管区と修道院に対し直轄権を持ち、普遍法と固有法の規定に従って単独で、または総理事会もしくは総評議会と共に、その権限を行使する」(会憲175,1)。「兄弟たちはみな、総長に対して他に優る従順と尊敬を表さなければならない」(会憲 7,2)。信頼の絆で世界的な兄弟会を共に建設するためには、どのような状況にあっても従順によって奉仕するという態勢をどのように「回復する」ことができるでしょうか。

     長上職にある兄弟(権威による奉仕にあたる兄弟)たちの間に、どのような協力が可能でしょうか(nn.181-185)。 

V.各地の兄弟体と世界に広がる兄弟体 ―組織の見直し(nn.188-205) 

各地の兄弟体と世界に広がる兄弟体との間に必要な補 完関係 

85 まずはっきりさせねばならないことは、各地の兄弟体と世界に広がる兄弟体の間に対立があってはならないということです。むしろ、同じ家族のメンバーとして活発な相互関係と相互協力があるべきです。無論、緊張関係もありえます。それはそれで、平和な心で交わりのプロセスに変えてゆくよう努力しなければなりません。どのような組織もみなの助力がなければ存続しませんが、自分の問題に引きこもるグループ(危機に瀕した時そうなりがちですが)は滅びてしまいます。ここで言いたいことは、私たちのインスピレーションと会則・会憲とに従い、各管区間および兄弟会全体の協力体制を強めながら、私たちのカリスマをそのまま純粋に、その広さも欠けることなく生きることです。それは、会自体や管区、そして各兄弟に対する深い信頼があるならば、またそれらの豊かな多様性を尊重して共に歩むならば可能となります。 

86 各管区に属している情熱とやる気にあふれる兄弟を「自由にして」あげなければ、私たちの会の発端と改革を特徴付けた宣教精神と福音化の精神を再び活性化することは不可能でしょう。「行きなさい。なぜなら小さき兄弟たちはこの“最後のとき”に当たって、特定の場所にではなく、世に送られたのですから。」(2チェラノ71)、「小さき兄弟たちよ、あなた方は神のご意思を知らないので、全世界を神の思し召しのままに回心させることを、わたしに許してくれないのでしょう。」(LegPer 20 (115) わたしたちは福音のために、たとえ限られた場所であっても「世界に与えられた」神の国のために働く兄弟会なのです。 

87 この考えに沿って、つまり、全世界−この複雑な人間社会−を包含するような霊的・宣教的考えに沿って私たちを養成するということは、組織の存続のために兄弟たちを「犠牲」にすることなく、私たちの使命に忠実であるということなのです。 

88 グローバル化という現象によって、国々は互いに身近になり、すべてがつぶさにわかるようになってきましたが、人間の心は決して近くなったわけでも、分かり合えるようになったわけでもありません。それどころか逆説的に、人間関係は前より難しくなっているのです。「さあ、出かけましょう。私たちは世に送られたのですから!」 

会の組織と生活 

89 私たちにはこの総会の会期中に、私たちの生活や関係(地域レベル、管区レベル、管区間および世界的レベルでの)を規制する組織の見直しを行なう責任があります。見直しによってすべての問題が解決するわけでは無論ありませんが、未来を見据えるのには非常に役に立つのではないでしょうか。私たちは、現在の困難を回避することなく、未来の備えとなる刷新のしるしを受け入れながら、明日のフランシスカン生活を準備することを求められています。私たちは、現状を見誤らず、召命を欺かずに、もっと厳しく吟味して自分達を見つめるように促されています。兄弟たちの数が減り、従って兄弟たちのいる場所も減っており、世界は驚くほどの速さで激変しています。・・・もはや、重大な決定を先送りにする猶予はありません。 

90 失われた時間やチャンスを取り戻すことはできません!私たちは大きな転換期を迎えており、これに対処するためには、より幅広くて深い交わりを保証することのできるもっと柔軟な組織を準備しなければなりません。私たちの奉献生活を本当の意味で改革するためには、メンタリティと心と生活スタイルを変える必要があります。 

改革を同時に進める必要のある組織(ストラクチャー)とは: 

91 a)兄弟一人一人の個人的、内的ストラクチャー

私たちの召命に必要不可欠なことは何かを考え、それ以外のことはすべて召命との関連において捉えながら、新しい生活の範囲に精神と心を開かせるようなしっかりした人間的・キリスト教的・フランシスカン的養成を行なうこと。そして、現代人にとって意味のある福音告知となるような一貫性のある生活を送るよう導くこと。 

b)有機的で関わりを主にした組織

     自分の召命に忠実であるために、私たちが守らなければならない基本的で重要なラインに沿って各地の兄弟体の生活を調整する;

     より大きな協力の精神で各管区、および世界に広がる兄弟体の生活を調整する;

     教会における私たちの役割を明確にする。すなわち、単なる司牧的任務にとどまらないために、役割について定期的に検討し、新たな役割を生み出す;

     世界と私たちの関係を多面的、流動的に表現する組織。 

c)外面的組織

私たちの日常生活の重要な外的環境、建物、複雑な社会環境、住環境など。これらはす全て私たちの個人的で関わりを主とした組織のあり方を左右するものです。 

結論:どのような組織も、個人的・共同体的福音生活を実践して初めて意味を持ちます。このことを肝に銘じておかねばなりません。 

中間組織 

92 この総会では、管区と総理事会の中間に位置する組織の役割について考え、決定することが重要であると思います。それは、重要な全般的構造改革を行なう上で決定的な要素となるでしょう。総理事会で6年間検討を重ねた結果、総長と各管区長との間にある種の隔たりがあることに気づきました。つまり、総長と各管区長との間を結ぶリンクのようなものが欠けていることに気づいたのです。どうすれば管区長協議会(コンフェレンス)が各管区の調整役および同伴役としての役割を最大限に発揮できるのかを真剣に検討しなければなりません。 

93 管区長協議会の会長と総理事会は管区と総長の双方にとって大変重要な仲介機構となり得ます。 

94 その他の暫定的なしかももっとシンプルな中間組織の設立を考えてもいいと思います。それらは会を活性化させ、会の宣教的次元を発展させるのに役立つでしょう。現代のように、「決定的」なものはなんでも不安と心配の種になるような「流動的」で複雑な社会においては、新しい臨時の組織を試してみることを恐れなくてもよいのです。大切なことは、真剣な識別と同伴、それぞれ権威者自身の定期的な評価、そして私たちの生活様式forma vitaeへの忠実さなどに対してどれだけ本気であるのか、です。 

結論:「時のしるしから、しるしの時へ」 

95 「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」(マタイ19,16)と、金持ちの青年がイエスに尋ねました。また、増やされたパンで満腹した群集も同じようにイエスにたずねました。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」(ヨハネ6,28)彼らに対するイエスの答えは(「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」[6,29])、今日の私たちにも通用するものです。つまり、徹底的に従おうとする私たちの歩みを妨げるようなものから自由を取り戻すためには、イエス自身を信じ、全面的かつ優先的にイエスに従うことが必要です。それは食事をするといったことや、サマリアの女のように水を汲みに来たのにそれを差しおいて(町の人々の所に)行ったように、本来もっとも必要なことからでさえも自由になるということなのです。この「積極的」で自由な信頼の姿勢は、私たちを神の無限の可能性へと導いてくれるものです。 

96 「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」(マタイ13,58)と、この福音記者は幾分悲しい気持ちを込めて記しています。今日でも、もしも私たちが思い切って神に信頼するならば、どれだけ多くの「奇跡」が私たちの間に可能になることでしょうか。現代世界は私たちにこの思い切って神に信頼する勇気を求めています。刷新の可能性を信じ、それを「実現させる」ことに必死で取り組んでいる兄弟たちが大勢います。何か新しいことが生まれつつあるのです・・・。 

97  次のキルケゴールの言葉を締めくくりとして、総集会でのプレゼンテーションを終えたいと思います。「もしも望みを叶えてもらえるとしたら、わたしの望みは富とか権力ではなく、可能性に対する情熱です。わたしが欲しいのは、永遠に若い目、可能性の実現を見たいとの願いにいつまでも輝く目だけです。」 

提案 

     管区長協議会の組織を最大限に活かし、強めるにはどうすればよいか。

     総本部の役割と機能(nn.195-196)

     nn.204205に示したその他の提案