小さき兄弟会総集会 |
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総長報告(第三部) |
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総長報告 第三部 |
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T.福音化と宣教 (nn.
109-122; 146-170) 福音化:創造的な愛をもって他者のところに赴くこと フランシスコとの新たな出発 68 宣教(mission)というものが、地理的なものを越えて、すべての人々のもとに遣わされるという意味であるなら、福音化(evangelization)とは、福音によって征服されること、すなわち、私たちの人生を変えられた方、そして、私たちがすべての人々に伝えたいと願っている方との出会いによって征服されることを意味しています。同時に、すべての召命もまた、宣教(mission)であり、すべての宣教は福音化なのです。福音化の中心には復活された主がおられ、私たちに呼びかけ、私たちを主のブドウ畑に送り、人生の旅路において、苦難からの脱出にあたり、私たちに同伴してくださいます。聖霊が私たちに内在しておられるので、私たちはどのような歓迎を受けようとも、喜びにあふれて希望をもたらす使者となります。いつも旅をし、いつも人に会い、いつも神の国を築くために働きながら、神の国は近いと感じることができます。 69 フランシスカンの宣教師は、地理的な条件に縛られることはありません。全世界が私たちフランシスカンの修道院(cloister)なのです。ですから、管区の管轄領域やフランシスカン奉献生活の記念碑を建てることに夢中にならないようにすることが極めて重要です。それでは福音に忠実な生き方とは言えないでしょう。私たちは命の種をまき、神の国の種を世界中に広めるために主に呼ばれ、この世界に遣わされているのです。 福音と私たちの生活様式(forma
vitae)に忠実であること 70 巡業の旅の宣教的な側面、つまり歩き回って福音を証しするあり方は、フランシスカン家族の主要な改革の特徴でした。私たちの霊性の基本は、出会いの霊性であり、他者のもとに出向いてゆく霊性です。それは、家の中でじっと待っている霊性ではありません。たとえ教会にとっては役に立つ多くの奉仕の務めも見直しが必要です。私たち
[固有] の在り方や働き方を同化しすぎてしまいます。私たちの預言者的な飛躍の力を弱めて福音を証しする範囲を狭めます。そして私たちの宣教(mission)を修道院や教会に通ってくる一握りの信徒の狭い範囲に限定してしまうのです。フランシスコは私たちにもっと違った世界を切り開いてくれました。巡業する者としてあり方の次元をはっきりと見いだすことによって、私たちのカリスマであるいつも途上にあるアイデンティティーは(世界の各地で生まれ成長し続けている大きく様々なムーブメントにはっきりと見られます)、再び輝きを取り戻すでしょう。私たちはクリスチャンを止めてしまった人々や、未だなっていない人々(神もキリストも教会も信じていない非常に多くの人々)のもとに赴いて宣教するように求められています。多くの人々の消費主義的で利己的な宗教心を、復活されたキリストに対する生きた、生命にあふれる信仰心に変えてゆくことは私たちの責務です。とにかく出発すること、始めることが必要なのであって、成功するか失敗するかは重要ではありません。主は困難があっても出向いてゆくように求めておられます。「私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」 71 「それで、主は自ら私を彼ら[ハンセン病者]の中に導いてくださいました。・・・こうして私は、その後しばらくとどまって、世俗を出ました。」(遺言1-3)他者に出会うために福音の教えに従い、怖れずに武器や所有物を持たずに出かけるならば、私たちはフランシスコのように福音化され、心も変えられ、回心の恵みをいただくことすら可能になるのです。このような計らい(projects)を私たちと共に遂行してくださるのは主だからです。それは自由と解放をもたらす、いのちと献身の計らいなのです。愛は常に創造的であり、何ものも怖れることがありません。福音化を目指す宣教師の道は信頼のしるしであり、それは怖れを乗り越え、他者の中に神への新たな信頼を芽生えさせます。それは、信仰を強め、私たちの召命を生きるための新たな熱意を生み出すのです。 現代の人々への誠実さ:フランシスカン福音宣教の本来の場は関わりが衰弱しているところに 72 フランシスコの時代に社会の最下層にいた人々とはハンセン病者でした。フランシスコは彼らに仕えるために彼らの間で暮らしました。キリスト教世界がもっとも怖れた敵は交戦中のサラセン人でしたが、フランシスコは武器を持たずにエジプトのスルタンと会って対話することを切に願っていました。盗賊の住むモンテ・カサーレの森、司教と市の当局者が和解したアシジの司教館のようなところは、フランシスコと今日にいたるまで彼に従う多くの者にとって特別な活動の場でした。 73 今日でも、各兄弟共同体は独自の文化的・社会的背景の中で、福音宣教にふさわしい特別な場を見つけなければなりません。たとえば、人々が疎外されたり、悲惨、緊張、不正、抑圧、暴力などに苦しめられたりしている所です。そのような所でこそ、友情と共感をもって、黙しながらも意味ある行動で、慎み深く人々と関わる必要があるからです。 74 和解と平和は現代社会が探し求めている最も貴重な恵みです。この二つの恵みを求めることが、フランシスカン福音宣教のあり方として最優先されるべきです。本物の宣教形態というものは、大陸、民族、国家などの制約や境界を越えるものだからです。貧しい人々、弱い人々、底辺に追いやられた人々は、私たちが彼らと共に居て、あかしの言葉を分かち合ってくれるのを待ち望んでいます。私たちは派遣されることを望んでいる兄弟たちを、一致団結して送り出さなければなりません。彼らは私たちの励ましと同伴を期待しています。一つの新しい宣教の波が本会を根底から刷新する源泉となり得るのです。 最も長く、最も労力を要する宣教の旅路 75 衰弱してしまったところ、わたしたちのミッションの場であるところ、おそらくほとんど忘れ去られたところでしょう。しかし、それはもっとも緊急に和解と一致が待ち望まれているところです。それは、わたしたちの「こころ」、神と共にあるいのちです。それはまさしくわたしたちの召命そのものです。もし自分自身から、或いは他者から逃げるだけなら、一体どこに向かっているつもりなのでしょう。もし自分自身と、自分の欲望と、自分の過去と、自分の仕事と、一緒に暮らす兄弟たちと和解していないならば、どうやって和解を人々に告げ知らせることができるのでしょうか。もし自分自身を受け入れることができないならば、どうやって平和を語ることができるのでしょうか。 最も大きな抵抗に出会っている宣教方法 提案 |